Interview:Naoki Serizawa
Photo:Masanori Naruse
2011年3月11日、かつてない未曾有の災害が日本を襲ったあの日。
一寸の躊躇もなくすぐさま日本へと駆けつけ、僕らを勇気づけてくれたアンダーワールド。あの日のことを忘れてはならない。
今だからこそ振り返る、あの日、あの時間に込められた思い……
震災から5年が経ったいま、改めてカール・ハイドに話を訊いた。
東日本大震災により、日本はかつてないほどのダメージを受けた。
それは被災地だけでなく、日本全国多くの人が傷つき、打ちひしがれていた。
余震が続き、そのたびに津波の不安に苛まれ、さらには原発事故による放射能の深刻な問題。
インターネット上では情報が錯綜し、国外へと避難する人すらいた。
なにを信じてよいのか? 当たり前にあった普通の生活は戻ってくるのか? 誰もがそんな不安が常につきまとう絶望の底にいたような気がする。
震災の余波はエンターテイメント業界にも大きな打撃を与えた。
海外アーティストの来日はほとんどがキャンセルとなり、その関係で予定していたフェスティバルも軒並み中止。世の中全体に“自粛ムード”が漂っていた。
そんな中、震災後にいち早く開催された音楽フェスティバルのひとつが『SonarSoundTokyo 2011』だった。
そして、そこに当初出演予定がなかったにも関わらず急遽日本に駆けつけてくれたのが、アンダーワールドのカール・ハイドとダレン・プライズだ。
Photo by Perou
「震災が起こってすぐに、日本行きのフライトに乗せてくれ!とマネジメントに頼んだんだ……」
それもすべての予定をキャンセルし、イベントに間に合わせるべく、成田から都内までヘリを飛ばすほどの強行スケジュールで。
数多くのアーティストが日本への渡航を拒否していたあの時期に、彼らはどのような想いで日本行きを決意したのか。
「日本にいる友達たちが助けを求めているのがわかっていたからね。
僕らは日本に行かなくてはならなかったんだ。
友達というのはそうやって助け合うものだろ?」
震災は多くの外国人の足を日本から遠ざけ、日々、彼らで賑わっていた繁華街からその姿はほぼ消えていた。
その風景を目にしたカールは、当時を寂しそうに振り返る。
「西洋人が日本からすっかり姿を消していた光景にはショックを受けたよ。
東京があんな状態だったのは、いまだかつて見たことがなかったからね。
渋谷周辺にいた西洋人は、僕ら以外には2人ぐらい。普段は外国人で溢れ返っているエリアなのに。
僕はとても恥ずかしくなったよ。逃げ出してしまった西洋人たち、日本を見捨てた連中を見てね」
そんな中、急遽日本に駆けつけたアンダーワールドDJsによるステージは、音楽の力を確かに感じさせる後世に残るパフォーマンスとなった。
集まったオーディエンスたちは震災後初のフェスティバルを心待ちにしていたはずなのに、スタート当初は少なからず心から楽しむ、ということに対して躊躇があったように感じた。
しかし、そんな中で彼らは“Rez”“Cowgirl”とアンダーワールドのヒット曲を連発し、絶えずオーディエンスを煽動。
マイクを握り「前を見ていこう。未来に向かってみんなで立ち上がろう」とエールを送り続けた。
フィナーレに向かうにつれて、そこにいるみんなの気持ちが徐々に解放されていくのを肌で感じ取れた。
そして、ラストに名曲“Born Slippy”を投下。そのとき会場は間違いなくひとつになった。
このとき確信した……。日本に必要だったのは明日への希望を持ち、みんなが一つになり未来へと向かうことだと。
おそらくその場にいた誰もが希望を抱き、そこに導いてくれた「音楽の力」を強烈に感じたに違いない。
「あれは僕らにとって“やらなくちゃいけないこと”だったんだ。僕にはあれ以外、他に何もできなかったからね。
日本のみんなには本当に長いことお世話になっているし、すごくよくしてもらってきた。
だから、みんなに困難が訪れたときには、僕もせめてできることをやる、日本のためにもやるしかないだろうって思ったんだ」
さらにカール・ハイドはこうも語っている。
「僕たちが作っている音楽は人々に喜びをもたらす類いのもの。だからこそ、僕らがやっている仕事は実にスペシャルなものになっているんだ。
リックと僕は、本当に特別な仕事をさせてもらっていると思っているし、会場に来てくれるオーディエンスから素晴らしい反応を得られること自体、とても名誉なことだと思ってる。
ただ、あのときの僕らはというと……、とにかくひどい状況の中でなんとか頑張っている友人たちのそばにいようとした、ただそういうことだったんだよね」