1993年のデビュー以来、現在に至るまで日本のテクノシーンはもとより、世界にも大きな影響を及ぼし続けるKEN ISHII。
“テクノゴッド”とまで称される彼のキャリアは、もはやテクノのひとつの歴史と言っても過言ではないだろう。

そんな彼の目にテクノはどう映り、どう変化してきたのか……。今のテクノを知るべく、まずはデビュー当時、90 年代初頭の様子から振り返ってもらった。

“「Strings of Life」を聴いたときはいろいろな意味で驚いた”

日本のシーンはまだすごく小さくて、それこそ当時渋谷CAVEでK.U.D.O.さんがやっていたレギュラーがほぼ唯一テクノを中心としたパーティー。ただ、何人かはテクノDJをやってみたいという人がいて、TOBYのようにヨーロッパのテクノDJを日本に連れてきた人もいた。

僕はその中でデトロイトテクノに特化してやっていたんだんだけど、当時はメディアもほとんどなく、レコード屋に入ってきた曲をしらみつぶしに聴く、そういう時代が続いていたね。

——当時はテクノと言っても、世間的にはYMOなどの印象が強かったと思うんですが。

そうだね。西洋では基本デトロイトテクノ以降の音がテクノ。一方で日本には不思議とテクノという言葉が以前からあり、テクノポップの流れがあった。同時代的な存在で言えばTRANSONICの永田一直くんとか。

MANIAC-LOVE01MANIAC LOVE

——1993年にはテクノの総本山とも言われたMANIAC LOVEがオープンしています。

その頃になるとインテリジェントテクノ(IDM)が全盛。MANIAC LOVEも当初そっちをプッシュしていたかな。

一方でK.U.D.O.さんがYELLOWに移り、そのYELLOWはテクノとディープハウスの二本柱でやっていて。その後、新宿LIQUIDROOMができて、そこはいわゆるテクノのメインストリームを全部やりますって感じで。コアな部分ではMANIAC LOVEが聖地だけど、一般的にはLIQUIDROOMが聖地化していったと思う。

——その頃の音楽性に変化は?

デトロイトテクノもあれば、ジャーマントランスから生まれたドイツ系、UK産のものとかいろいろだね。同時に日本でもアーティストやサブライム、フロッグマン、サブヴォイス、とれまなどのレーベルが生まれ、全てが一緒になった。だからこそ90年代中盤から後半にかけて強い流れができたんだと思う。それが日本で最初の爆発って感じだね。

LIQUIDROOM01新宿 LIQUIDROOM

——世界的にはアンダーワールドとかが大きくなっていましたよね?

僕の感覚では、当時僕らの考えているテクノには彼らが入っていなかった印象がある。それこそ“Born Slippy”のヒットで初めて意識するぐらい、UKテクノは別の文脈だと思ってた。ただ、彼らのような存在が確実に大きくなり、一言でテクノと言ってもわからなくなってきていたかな。

——90年代を代表する曲と言うと?

デトロイトテクノで最大のヒットは、ポップ方面ではインナー・シティ“Good Life”。いわゆるテクノだとリズム・イズ・リズム“Strings of Life”。ただ、厳密に言うと両方80年代の曲で、90年代半ばにはクラシック化してたんだよね。

そう考えると、一般的な面も視野に入れるとやはり“Born Slippy”だと思う。曲のよさもあるけど、90年代後半には東南アジアのモールでもガンガン流れてたから。それだけ世界中に広がっていたのはスゴいことだよ。

——純粋にテクノで括るとどうでしょう。

個人的な意見になってしまうけど、やはり“Strings of Life”。この曲を聴いたときはいろいろな意味で驚いたし。ちなみに、僕の人生の中でスゴく聴いた曲が3曲あるんだけど……。

KEN ISHIIが人生で最も聴いた3曲とは……

——それは気になりますね。

小学生のころを含めると、最初はYMOの“RYDEEN”。当時からアレンジとかスゴく気にして、かなり細かく聴いてたね。

——そんなころから……。

音楽をやりたいと思ってたよ。で、2曲目がデトロイトテクノにハマる少し前、当時後追いでニューウェイヴを聴き始め、その中で最も好きだったのがDAF。“Der Mussolini”をかなり聴いたね。

で、その次が“Strings of Life”。デビュー前はデトロイトテクノを調べ尽くし、DJの練習をして、その後様々な曲を聴くようになってからもデリックの曲は聴いてた。彼のレーベル(Transmat)の曲も、リミックスも全部持っていたし、かなり深く聴いていたよ。

——デリック・メイの影響は大きかったと。

一番と言えるかもね。

——では、90年代のテクノを総括すると?

上昇オンリーだったというか、中盤ぐらいまではアンダーグラウンドだったけど、確実に拡大していった。国内でも(石野)卓球くんが、それこそ電気グルーヴのファンとともに入ってきて、それも相当な後押しになったと思う。

あとは99年に『WIRE』が始まったのが最終的な加速の要因になったかな。音的にはBPMが上がる一方で、最終的には145とかになって……かなりイキきった感はあったね。

WIRE02『WIRE』

——当時、日本と海外の差は感じてました?

90年代のテクノ先進国というとUKが一番で、それ以外は少しずつ上がっていった感じがする。まずUKがあり、その次にオランダやベルギー、そしてドイツ。その後にフランス、スペイン、東ヨーロッパ。

——ドイツありきではない?

アーティストは大勢出てきていたし、『LOVE PARADE』もあったけど、あれはレイヴっぽい、お祭りっぽい感じで、国全体でテクノシーンが進んでいるっていう印象はなかったね。90年代のダンスミュージック先進国は確実にUK。そして、日本はと言えば、世界的には比較的早く発展したと思うよ。90年代後半には僕自身日本も海外も同じセットでプレイしていたし。

loveparade03『LOVE PARADE』

——その頃はもうレコードの数だけで言えば、日本は世界でもトップクラスでしたよね。

インターネットが普及する以前、手に入るダンスミュージックの量だけで言えば、日本はかなり多かった。それが日本が進んでいた理由だったと思う。

——では、2000年代以降は?

音楽的な部分で言えば、みんなハードにイキきっていたところから、突如ミニマルに変化した。リッチー(ホウティン)がスタイルを変えたことから始まって、激ハードだったものがここまで変わるかっていうぐらい変化して。ハードテクノをやっていた人間がみんなミニマルに流れていたから、僕も正直とまどったよね。

——それこそアダム・ベイヤーとか。

ある意味、テクノも限界まできていたから仕方なかったと思う。そうなるしかなかったんだ。ひたすらハードに向かうだけでは発展はなく、それが永遠に続くものではないってみんなわかっていたと思うし。そういう意味では、一度振り出しに戻った感じかな。

そんな中で僕はミニマルに行くか悩んで、結局行かなかったんだけど、その理由もデトロイトテクノだったんだよね。

——それは?

ロンドンのMinistry of Soundで、その日は確か僕とデリック・メイとステイシー・パレンとDJローランドーだったと思うんだけど、みんな全然変わってなくて。そして、その翌日にはジェフ・ミルズとケヴィン・サンダーソンが速いBPMでガンガン盛り上げていて。ミニマル全盛期なのに。そこで僕はスタイルを変える必要はないって思ったんだ。

多くのヨーロッパ人DJがミニマル化するなか、僕はヨーロッパ人でもないし、現地の人たちが僕にも同じものを求めているわけではないとわかってね。

デリックメイDerrick May

“テクノはエナジーを感じ、“汗”を感じるもの”

——その後テックハウスも派生し、いよいよテクノは細分化した記憶があります。

正直、俺もわからない(笑)。今はさらに細分化と再構築が繰り返されているし」

——今やテクノの定義も難しい?

細かくカテゴライズしたい人にはあるかもしれないけど、僕は常々自分がテクノだと思っているものがテクノだと思ってる。デリックも「俺がテクノ」って言ってたけど、まさにそう。究極的なことで言えば、制作者のメンタリティによると思うね。

——最近のテクノについてはどうですか?

いわゆるDJとしてのテクノで言えば……そんなに冒険していない感じがする。自分もなんだけど(笑)。僕自身、クリエイターとしていろいろなものを作りたいと思っているけど、DJとしてのテクノの文脈で言えば、それはエナジーを感じさせるというか、シャウトできる音楽だと思うんだ。テクノは“汗”を感じるものだよね。

——90年代と今を比較してみると?

昔がよかったとは言いたくない(笑)。ただ、正直に言えば、双方いい部分と悪い部分がある。90年代のよさはダンスミュージックシーン全体が大きくなる過程だったこと。常に新しいジャンルが生まれ、新しいものを求める姿勢があり、実際にそれがでてきていたんだ。

一方、2000年代以降はシーンが発展する中でキャパシティも格段に広がった。世界中にシーンが根付き、さらにはインターネットによってみんなが平等に音楽を手に入れることができるようになった。ただ、そうなると新しいものよりもうまく作ったもの、売れるものがメインになってきている感じがあるよね。

僕が冒険していないって言ったのは、単純に人が好きになる要素をみんな共通項として持ってしまったから。今は世界中にシーンがあり、国籍や環境に関係なくどこでも誰でもプレイできる、それが今のよさだと思う。

——ファンのリテラシーも上がりましたよね。

それはつまり選択肢が広がったことでもある。お客さんが盲目的に海外のDJに足を運ぶだけでなく、みんな音を知っている分フェアになっているってことだから。

——21世紀を代表する曲というと?

難しいね……。今はもう完全に新しいものはないと思うし。新しいジャンルと呼ばれるものが出てくると、新しいアーティストも出てくる。そして、ファンも新しくなるから、ジャンルとしては成立することがある。でも、それは何かがちょっと違うだけと感じることも多いのが事実であって。

——革新性がない?

残念ながら、大きな違いを感じないことが多いよね。あとはインターネット時代になってクラブヒットが出にくくなっていると思う。その理由も選択肢が増えたから。そして、曲の数も格段に増えて、DJは好きな曲だけ選べばいい。

逆に言えば、ヒット曲をかけなくても勝負ができる。それはいいことだと思うけど……客を呼べるDJが求められる時代になってしまった。昔だったらどう考えてもマネできないターンテーブルの使い方に凄味があったけど、今はDJの手元にみんな興味がないようにね。

——でも、機材の進化によって以前とは違った意味でスゴいDJもいますよね。

そうだね、EDMのDJはそのスタンスだと思う。特に大きなフェスはね。ヒット曲をかけ、自分でもそこに見合うヒット曲を持っていて、ブレイクでオーディエンスを煽る。それを求めているお客さんが多いわけで。DJもショービジネスだから、観客が求めることをするのは正しい。ただ、それだけではないと思うんだよね。

——と言うと……?

今僕らが感じているようなことを、昔はロックの人たちやロック好きの人たちが感じていたと思うんだ。なぜなら、当時演奏していない僕ら(DJ)を見て、彼らは人の曲をかけているだけでなぜ稼げるのか驚いたはずだから。まずそこで大きなパラダイムシフトがあった。ただ、今となってはDJは稼げる、ミュージシャンがDJをすることが増えた。それは、つまり以前と同じようなことが起こっていると言えるよね。

KEN-ISHII_IMAGE02

“テクノとハウスはダンスミュージックの基本だからなくなりはしない”

——テクノの未来を考えたことはあります?

実はない。考えたくないのかもしれない(笑)。世界中に広がった今、リアルな話をすれば淘汰される時代になっていくと思う。テクノがアンダーグラウンド化しているのも事実だけど、僕はどこまでいってもテクノとハウスはダンスミュージックの基本だからなくなりはしないと思うけどね。

——ヨーロッパではテクノ、ハウスに向かう人は増えているんですよね。

クラブ単位では増えてきているね。向こうではクラブシーン自体が持ち直してきているし。一方でアジアは少し淘汰されている感じがして残念だよ。かつて日本はインターナショナルなDJの間でも様々な意味で人気だったんだけどね。

ただ、若い人材も出てきて、海外に出る抵抗も薄れていると思うから、アーティスト個人個人が世界を舞台に存在感を示し、いずれ日本に帰ってくる。そういう再生の仕方はあると思う。

——若い世代に期待したいと。

テクノ自体、メインストリームになる必要はないんだ。でも、聴く人がいなくならないでほしいよね。クラブに来るお客さんも重要だけど、テクノという音楽はレンジが広く、様々な実験ができる面白いものだから、とにかくみんなに聴いてほしい。

——今後のシーンのためにすべきことは?

アーティストが頑張ることは当然だけど、しいて言うならべルリンを見習うこともありだと思う。

なぜベルリンが世界的に注目を集め、クリエイティブなアーティストが集まっているかと言えば、外国人が入りやすい環境だから。正直ベルリンも20年前はスカスカだったのに、今はみんなそこを目指してる。街全体でクラブやアートシーンを盛り上げ、みんなそれを求めて行く。日本もそうなるべきだよね。アジアの中で、日本こそが名前を上げる場所になるように。

それはクラブだけでなく、全てのシーンにおいて言えることで、観光客が増えている今の日本はそこに気付いているはずなんだ。だからこそ、今やるべきだと思うよね。