2020年1月11日、日本のドラムンベースシーンを牽引してきたひとつのパーティが幕を下ろす……その名は「06S」。

すでにそのファイナルの全貌は明らかになり、海外からはサブ・フォーカスにオーディオ、そしてディザスタと錚々たる顔ぶれがフィナーレを飾るべくエントリー。国内からも19年前のスタート以来、レジデントとして獅子奮迅の活躍を見せてきたDJ AKiとその盟友YUUKi MC。さらには今後のシーンを担う若き気鋭に加え、本邦初公開となるYELLOCKの参戦も決定。

日本のドラムンベースの一時代を築いた「06S」の終焉は果たして何を意味するのか、そしてその先にあるものとは……ファイナル開催発表直後のDJ AKiに話を聞いた。

ブラジルで舞い降りた、ドラムンベースDJの可能性

——まずは、ファイナルを発表したときの率直な気持ちを教えてください。

「次が最後……という思いは以前からあったんです。そして、6月に開催した18周年アニバーサリーの最後にみんなにそれを打ち明けたら、若手のDJは泣き崩れ、お客さんも動揺してしまって……嬉しい反応ではあったんですけどね」

——そして、2020年1月11日(土)にファイナルが決定しました。

「いろいろと調整が必要で時間がかかっちゃいましたけど、今はスッキリしたというか、燃えてきました。最後に自分はWOMBという空間で何ができるのか、自分がやってきたことをどう見せるのか……『06S』19年間の集大成として、モチベーションは高いです」

——悲観的な気持ちは一切ない?

「ないですね。むしろ19年前、スタート当初のころの気持ちに戻ってきている感覚すらしていて」

——19年間、毎月開催してきたことは本当にスゴいと思います。

「誰もここまでできるとは予想してなかったと思います。正直、当初はあまり人も入ってなかったし(笑)。ただ、いかにより良いパーティを作るか、楽しいものにするかを絶えず考えていたら、いつのまにか19年、合計207回やってました(笑)。当然感慨深い部分もありますけど、今は『FL』という新しいパーティも始め、本当にポジティブな気持ちですね」

——207回の中で印象に残っていることは?

「数多くの海外ゲストが出演してくれましたけど、どのアーティストも1回目に出演したときのことは鮮明に覚えてますね。なかでも強く印象に残っているのはマーキーとアンディC、そしてエド・ラッシュ&ライムタイム。あのフロアの熱狂は今も頭に残ってます」

——19年となると東京のシーンも大きく変わったと思いますが、それを牽引していた当事者として改めて振り返ってみると?

「少なからずシーンを作ってきた自負はありますが、自分1人では何もできなかったと思います。強力な仲間がいて、みんなシーンをより強靭なものにしていこうという思いがあったからこそ今までやってこれた。しかも、それぞれ適材適所で自分の役割をこなし、その中でたまたま僕はDJだったというだけ。本当に仲間に恵まれたと思います」

——「06S」のターニングポイントは?

「ブラジルに行ったことですかね。通算5回、全てマーキーが呼んでくれたんですけど、それも『06S』で繋がった縁。彼はすごく厳しい人で、僕は音楽を通じて心で通じ合い、DJとして認められたからこそブラジルに行けた……それがとても嬉しくて。特に2回目に行ったときに出演した『Skol Beats』が本当にスゴくて。3日間で7万人を動員するフェスなんですけど、そこでプレイしたときにフロアにできた人の波に感動して、最後の1曲をドロップしたときには空から何かが降りてきたんですよ、目に見えない何かが」

——それはお告げのようなもの?

「ドラムンベースDJの可能性というか、ちょっとした勇気が生まれてきて。あの体験はすごく大きかったですね」

——DJをやり続けなさいという、神の啓示だったのかもしれませんね。

「そうですね。あとはドラムンベースの聖地ロンドンでも伝説のクラブThe End(2009年閉店)でプレイできたことも大きかったし、その後もfabricでもやらせてもらったり、ロンドンもいい思い出がたくさんあります。ただ、それも全て『06S』があったから。2年前に出演した『Let It Roll』もそうですけど、自分がいつか立ちたいと思っていたステージに立てた背景には、『06S』を通して100組以上の海外アーティストと出会い、一緒に過ごしてきたからだと思うんです。彼らにナメられたくない、東京のシーンを見せつけてやりたい、そう思って常に全力でやってきたことで切磋琢磨し、お互い認め合い、今の自分があると思います」

ドラムンベース一筋26年、その根幹にあるものとは…

——AKiさん自身、DJのルーツは海外ですよね?

「1990年代にNYに7年いて、そこで始めたんですよ」

——今さらですけど、なぜドラムンベースだったんですか?

「DJを始めたのは1996年、当時26歳という遅咲きも遅咲きでした。その前からクラブには行っていたんですけど、最初は絵描きを目指していて。それで単身NYに乗り込んだものの、素晴らしい才能を持っている人が星のようにいて早い段階でドロップアウトしちゃって……。そんなときに働いていたカフェの仲間の1人、アイルランド人のダラがドラムンベース専門のレコードショップをオープンしたんです。彼はカフェでもドラムンベースというか、前身のジャングルをよくかけていて、最初は正直“何だよ、このビートは……”ぐらいに思っていたんですよね。当時僕はオルタネイティブロック好きだったので。ただ、なかにはちょっといいなって曲もあって、ダラのショップがオープンしたときに友達だし、記念にレコードを買いに行って」

——最初はあまりドラムンベースにいい印象はなかったんですね。

「そうなんですよ。でも、レコードを買って、当時近所に住んでいた、その後一緒に『06S』を立ち上げるSABIが趣味でDJをしていたので彼の家に聴かせてもらいにいったんです。そして、そこでせっかくなのでDJのやり方を教えてもらって……」

——となると、SABIさんが最初のDJの先生だった?

「そう。そして、やり始めたらハマってしまって。それから3年間1日も欠かさずSABIの家に通い詰めて練習してました(笑)」

——最初に買ったレコードは覚えてます?

「5枚買ったうちの2枚だけは……1枚はDJハイプの“Peace, Love And Unity”。あとはアフロダイテの“Bad Ass”でしたね」

——それからドラムンベース一筋なんですね。

「なかなかいないですよね(笑)。当時NYはハウス全盛期、誰もがハウスに走ったと思うんですけど、僕はたまたま身近にダラがいて、ジャングルのシーンがあって。でも、今はドラムン一筋でよかったと思ってます」

——それはなぜ?

「今DJスクールの講師をやっているんですけど、若いDJはお客さんにあわせた音楽をかけようとばかりする。確かにみんな器用で、いろいろなジャンルをミックスできるんですけど、そもそもDJは自分のやりたいことを音楽、ミックスを通して表現するもの。それを生徒に諭していて、僕自身これまでやってきたこと、自分の信念を改めて気付かされて」

——でも、それは意識することなくやっていたわけですよね。

「ただただDJが楽しかったっていうのもありますけどね。僕はDJを始め、ダラがその後オープンしたDJバーでやらせてもらうことになって、当時のギャラは20ドル。それこそレコード2枚買えるかどうかでしたけど、そこで毎週3年間、暑い日も大雪の日もDJをして、人前でプレイできる喜びとDJの楽しさを知ったんです。それが、今の自分の根幹にあると思います。そして、その後NYの伝説のクラブ、毎週のように遊びに行っていた憧れの場所Twiloでもやらせてもらえるようになって。DJを始めて3年後ぐらい、Twiloのメインフロアのブースに立ったときに僕はDJとしてやっていこうと決意しました。それから今まで、僕は一度もDJをやめようと思ったことはないですね」

——その後に「06S」が始まったんですね。

「2000年に帰国して、2001年にスタートしました」

——この19年で、やっぱりプレイスタイルとかも変化しましたよね?

「変わりましたね。音楽にも旬やトレンドがあるし、機材も大きく進化しましたから。最初はターンテーブルでやっていたものがCDJになり、2台だったデッキも今では3台になって。そこからプレイの幅も広がったし、何より自分の表現方法も大きく変わって。ただ、基本的な部分は最初からブレていないと思います」

——それは?

「『06S』の立ち上げ当初、ハードな音楽を軸にしようというコンセプトがあったんです。当時サイバー主体のドラムンベースパーティは東京にあまりなかったので。そして数年後にはお客さんに『06S』の音が理解されるようになり、そこからはそのイメージを崩さないよう進めるようになって。割と早い段階で指針ができたことは大きかったですね」

DJ AKiがつぶやいた“時代の終わりは時代の始まり”の真意

——ちなみに、この19年間で一番かけた曲って覚えてます?

「それは難しいですね……(ここでメッセージ)僕の学生時代からの親友でクルーの1人、『06S』皆勤賞のNihongiさんによるとバッド・カンパニーの“The Nine”だろうと(笑)。彼はもはや僕のセコンドで、毎回どこが良くて、どこが悪かったか指摘してくれて。昔はクルー全員で一緒に住んでいたのでイベント終了後には毎回反省会をして、家でもいかに『06S』をよくするかを話していて……あの熱量はハンパなかったです」

——そういったものは今の若い世代からも感じますか?

「熱量というか、やっぱり勢いはありますよね。身体的、年齢的にも(笑)。ただ、経験値としてはまだまだ負けない。最近、DJをしていると意識が高いところから俯瞰して全体を見ているような感じがするんですよ」

——それは何も考えないでDJしているということ?

「無意識というか、機材を触っている感覚が薄まって、プレイしている自分を少し上から見ている感じ。同時にフロアも以前よりも見え、奥の方のお客さん1人1人の様子がよくわかるんです。正直に言うと、『06S』を始めたころは最初から最後までセットを組んでいないと不安で、完璧に準備していくことで自分のやりたい表現ができると思っていたんです。ただ、それが現場では60%ぐらいしかできなかったですけど(笑)」

——それが今は変わった?

「そうなんです。パターンはあるものの、今はフロアを見ながらセットを臨機応変に変えていくようになって。そこに新しい楽しさを見出すようになったんです。かつては自分が構築した表現を100%することにこだわっていましたけど、今はフレキシブルに感情を表現する……それがDJなんだって思ってます」

——それこそ経験の成せる業ですよね。

「ただ、若くて面白いDJが増えているのも事実ですね。DJスクールの講師を3年弱やってますけど、14歳から通い始め、今16歳の子がいて、彼は本当にスゴイ。2年間しっかり叩き込んだらメチャクチャDJがうまくなって、今ではデッキ3台使ってプレイできる脅威の16歳がいます。しかも、曲も作れて、それがまた素晴らしいという」

——逸材ですね。

「『06S』というイベントは終了しますが、今後はレーベル06S Recordsを軸にやっていこうと思っているんです。そして、そこで若いアーティストをもっとプッシュしていきたい。もはや坂東玉三郎の気分ですね(笑)。自分の代わりにフロントに立てる人材を育て、層を厚くすることが日本のドラムンベースの未来だと思うんです。講師をして、そういったビジョンが見えた。何事も次世代に託す、継承することは大事だなって」

——Twitterで「06S FINAL」の発表をした際、“時代の終わりは時代の始まり”とありましたが、その始まりは06S Recordsなんですね。

「それもあるし、僕は来年で50歳、長く生きていると当たり前だったことが当たり前じゃなくなる瞬間があるんですよ。『06S』も毎月当たり前にやってましたが、それが終わる。でも、その瞬間って人の心がものすごく動く瞬間でもあるんですよね。それに、長く続けてきたことで良かったこともあるけど、そうでないこともある。熟考を重ねた結果、自分から幕を閉じることでシーンが活性化できるんじゃないか、そう思ったのがファイナルに至った大きな要因でもあるんです。それが“時代の終わりは時代の始まり”です。あとは、奇しくも平成から令和へと変わり新たな時代が幕開けした、これは新しいことを始める絶好のタイミングかなとも思って」

——いろいろ葛藤があったわけですね。

「今思えば、『06S』を淡々と続けていいのかという疑問は1年以上前から、もしかしたらその前からあったかもしれない。『Let It Roll』の影響も大きかったですね。ドラムンベースオンリーのフェスに10万人……ヨーロッパはスゴイことになっているのに日本はどうなんだって」

——危機感を感じたわけですね。

「感じましたね。日本では考えられない光景を目の当たりにし、自分がいつも見ている東京の現実とのギャップに打ちひしがれたというか。あとは、ウィーンもですね。ディザスタに呼ばれて4回行ってるんですけど、始めて行った8年前は『06S』と変わらなかったシーンが、たった数年で5倍以上も大きくなっていて。当然カルチャーや国柄もありますけど、僕ら自身何か変えていかないといけないんだなと思いましたね」

——それでイベントだけでなく、レーベルもしっかりとやろうと?

「06S Recordsは10年前ぐらいに立ち上げたものの、当時はレコードの時代だったこともあって運営していくことが困難だったんです。でも、もしも頑張っていたら日本のシーンは違っていたかもしれない……っていう思いが常にどこかひっかかっていて。そんななか、若い世代も育ち、新たな時代に突入する今こそレーベルをリスタートするべきだなと。そして、みんながもっと精力的に活動できる地盤を作っていかないといけない、06S Recordsは若い人たちのプラットフォームにならないといけない、そう思ったんです」

——それはドラムンベースに限らず言えることでもありますね。

「あとは僕自身もうひと絞りしたい、やっぱりヨーロッパを攻めたいんですよね。その気持ちがどこかでくすぶっている。そのためには今変化するしかない、できることは全てやっておきたいし、自分に対しても希望を持ちたいんですよ。それは自分が表立つことだけじゃなく、若い人たちに継承し、彼らが持っているエネルギーを放つ場所を提供する……それがこれからの僕の役割であり使命なのかなと」

目指すは前田日明…ドラムンベース界の朝倉兄弟の発掘

——具体的なファイナルのプランはもうあるんですか?

「基本的には今までやってきたスタイルは崩さず、その中で未来へと繋げたいですね」

——AKiさん自身は?

「ある程度のプランはありますけど……ひとつ言えるのは、デッキ3台をフル活用した、これ以上できないことをどこまで試せるか、そこに挑戦しようと思ってます」

——50代の底力を見せてくれるんですね。

「かつて前田日明がヒザをケガして1年ぐらいリングスを休んでいたときがあったんですけど……」

——ここで前田日明ですか(笑)。

「前田日明は僕の中でカリスマなんで(笑)。そのケガ後の復活戦がもうキレッキレでメチャクチャいい試合だったんですよ。ファイナルはそんな前田日明のイメージです(笑)」

——ドラムンベース界の前田日明を襲名すると(笑)。

「本当にそうなりたい。彼はリングス設立時、世界中にネットワークを作って海外から選手を招聘し、シーンを作った。それって、『06S』を始めるときに描いていたのと同じなんですよ。そして、その後もTHE OUTSIDERを立ち上げ、日本中のケンカ自慢を集め、朝倉兄弟というスターを生み出した。これはまさに僕らが見据える未来そのもの。僕らは世界と戦えるドラムンベース界の朝倉兄弟を見つけないといけないんです」

——最後にファイナルに向けて、意気込みを教えてもらえますか。

「このファイナルが日本のドラムンベースの未来を示すものになると思います。ただ、『06S』は終わりますが、06S Records 、そしてDJ AKiは終わりません。僕自身は生涯現役、限界に挑戦したいと思ってます。生きている以上は人前でDJをし続け、できることならDJブースで終わりたい。それまで走り続けるので、ぜひこれから、新たな始まりに期待してください」

DJ Aki

2001年にNYより帰国し、WOMB でアジア最大のドラムンベースパーティ「06S」のレジデントDJとして活動を開始。18年間に渡って100組を超える海外のトップDJ/アーティストと共演&日本に紹介し、日本全国のシーンの拡大に寄与。
DJとしてはキャリア22年目に突入し、これまで「FUJI ROCK」や「ULTRA KOREA」、「ULTRA JAPAN」、「WOMB ADVENTURE」などの大型フェスティバルにも多数出演。海外での活動も活発で、イギリス、アメリカ、ブラジル、オランダ、オーストリア、セルビア、チェコ共和国、台湾、韓国、中国、タイ、シンガポールなどでプレイ。
また、プロデューサーとしても2011年にiTunesでリリースされたNIKE+ BASIC RUN [SPEED] MIXED by DJAKiが総合アルバムチャートで3位に。国内外、様々なアーティストのリミックスを手掛け、2014年からは3年間に渡ってSTY、YUUKi MC とのユニットASYでドラムンベース、ダンスミュージックを軸に楽曲制作を行い、シングル“S.T.A.R.S.”はiTunesダンスミュージックチャートで2位にランクインしている。

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EVENT INFORMATION

06S FINAL

20 20.01.10(土)

OPEN 22:00

WOMB

SUB FOCUS (RAM RECORDS) / AUDIO (KILLBOX/RAM RECORDS/SNAKE PIT RECORDS) / DISASZT (MAINFRAME RECORDINGS) / DJ AKi & YUUKi MC (06S RECORDS) / YELLOCK [LIVE] / YASUKI / MAOZON and more

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