日本のクラブ黎明期からDJとして活躍し、シーンの酸いも甘いも知り尽くすKO KIMURAにインタビュー!

▶︎1980年代のカルチャー発信地“ツバキハウス”とは?

▶︎▶︎KO KIMURAは実はヒップホップのDJだった!?

▶︎▶︎▶︎NYの伝説のクラブ“Paradise Garage”驚きの㊙️エピソード

▶︎▶︎▶︎▶︎1980年代後半、NYで大成功した日本人DJとは?

▶︎▶︎▶︎伝説のクラブ、芝浦“GOLD”でレジデント!

▶︎▶︎世界の“Satoshi Tomiie”先生誕生秘話

▶︎日本初のクラブDJ!? カリスマ“藤原ヒロシ”のスゴさ

などなど、KO KIMURAが実際に経験してきた貴重な話が盛りだくさん! 日本のクラブ、そしてハウスの知られざる歴史がここに! マジで必読、超バイブル!!!!!!!!!

ツバキハウス・ロンドンナイト・ヒップホップ勃興

――KOさんはいつからDJ活動を始められたんですか?

KO:1982〜83年頃に始めて、お金をもらえるようになったのは1985年からですね。

――当時はディスコだと思いますが、遊びに行き始めたのはいつ頃?

KO:高校生の時にディスコに遊びに行きだして、当時人気だったのは(新宿にあった)“ツバキハウス”。中でも「ロンドンナイト」というロックのパーティが有名でしたね。僕は当時岐阜県に住んでいたんだけど、名古屋のディスコでも毎週火曜に「ロンドンナイト」みたいなパーティがやってて、(本家のレジデントDJ)大貫(憲章)さんもたまに出たりしてて。そういうところに行き始めて、ちょうどその頃ヒップホップも始まる感じで「DJいいな、面白そうだな!」みたいな。

――当時はどんな音楽が流行っていたんですか?

KO:僕が最初にレコードを買ったのは小学生でアニソンとか映画音楽でしたが、当時の周りの友人はみんなキャンディーズとかでした。あとは松山千春さんとかさだまさしさんとか。でもちょうどYMOが出始めて、それが面白かったのでそっちの方にいって。あとはもともと歌が入ってないインストが好きだったんですよ。だから映画音楽。「タワーリング・インフェルノ」や「ポセイドン・アドベンチャー」とかのサントラを聴いて、その後Joy DivisionからNew Orderが80年代になると出てきてDepeche Mode、Yazooとかかっこいいな〜って思ってたらヒップホップが出てきた感じ。

――最初はヒップホップに惹かれたんですね。

KO:普通にKraftwerkもかっこよかったんだけどAfrika Bambaataaが出てきてKraftwerkはファンクだ!って言って聴き方も変わりで。ヒップホップはグラフィティやファッション、アート、ダンスとかいろんなカルチャーが混在していて面白かったから「これからはヒップホップだぜ!」って思いましたね(笑)。

――80年代というとどんな曲が?

KO:地元のレコード屋に行ったらThe Sugarhill Gangの“Rapper’s Delight”の邦盤7インチしかなくて、名古屋まで行って12インチを買ってました。その頃Malcolm McLarenもヒップホップをやって、とにかく(ヒップホップが)かっこよかった。

――DJはどこかで修行したり、教わったりしたんですか?

KO:完全に独学。僕はもともとレコードコレクターだったので。それで、DJをやろうと思ってバイトして当時7万円くらいしたターンテーブルを買ったんだけど、最初はターンテーブル1台とミキサーしか買えなくて。家にあった普通のレコードプレーヤーとのコンビで練習するみたいな(笑)。

当時クラブDJとしてやってたのは(藤原)ヒロシ君しかいなかったと思う。彼はもうその頃からファッションアイコンとして雑誌とかに出てたけど、そんなヒロシ君も最初はツバキハウスの客だったみたい。僕は高校生の時に東京に行くと必ず泊まらせてもらっていた友達がいて、彼の家がヒロシ君と同じマンションだったんですよ。なので東京でもよく家に遊びにお邪魔したり。

――ツバキハウスは当時のカルチャー最前線だったんですね。

KO:ツバキハウスは基本ディスコでありつつロック、ロカビリーとかの普通のディスコではかからない曲も日によってかかってたんですよ。日曜には伊藤政則さんのヘビメタナイトもあったりで。当時のディスコはユーロビートとLionel Richieみたいなディスコ、ソウルトレインみたいなので踊ってる感じ。だけどツバキハウス、特に「ロンドンナイト」は全然違ってて、それがめちゃくちゃその時代でもトンガっててかっこよかったんです。

ハウス爆誕! まさかの一晩中衝撃のParadise Garage

――当時ディスコに行っている人は多かったんですか?

KO:僕が通っていた高校では1人もいなかったけど、ディスコは流行ってましたね。当時はDJバーができだした感じで今で言うクラブはなかったから。1984〜85年頃になってユーロビートじゃないクラブ的なものが出てきて、原宿にピテカントロプス・エレクトス・後にクラブD、モンクベリーズっていうライヴハウス、西麻布〜青山にはタクシー・レーンっていうレゲエバーだったりバブリン・ダブ、P.PICASSO、TOOL’S BARとかができてきて、特に西麻布は何かが始まる感じでしたね。あとはその後、桑原茂一さんが「クラブキング」を立ち上げたり。

――その頃はまだ日本にハウスはなかった?

KO:僕が名古屋でDJをしてた時の同僚がニューヨークのParadise Garageに遊びに行って、それがちょうどハウスが始まった時だったんですよね。「ニューヨークはどこのクラブもヒップホップなんてかかってねー!」って言ってました(笑)。で、その同僚がParadise Garageで録音してきたカセットテープを聴いたら、その時リリースされたばかりのJ.M.SILKの“Love Can’t Turn Around”、ハウスの元祖と言われている曲が入ってて、片面90分ずっと同じ曲、それしかかかってないの(笑)。

――Paradise Garageでは一晩中ずっと同じ曲がかかってた!?

KO:A面、B面、インストとかバージョン違いでずっと同じ曲でしたね。

――それはある意味衝撃的ですね……。

KO:ですよね。でも当時の僕には「これがニューヨークか! これがハウスか! かっこいいぜ!」みたいな(笑)。

――そこからハウスにハマっていったと。

KO:ヒップホップも好きだったけど、当時あまりトピックがなかったんですよ。82〜83年頃は名古屋のレコード屋もヒップホップのコーナーはあるんだけど棚には10枚ぐらいしかないし、次の週に行っても数枚増えているだけで、それを全部買うみたいな感じ。東京・六本木にあったWAVEっていうレコード屋でもヒップホップのレコードはそんなになくて、初期はとりあえずレコ屋にあるものを試聴もできないので全部買ってましたね。

それを2〜3年続けていたらハウスがでてきて、ちょうど始まったばかりだからレコードもまた全部買えると思って買い始めて。それこそSTRICTLY RHYTHMは200番ぐらいまで全部持ってたし、デトロイトテクノもKMSとかTransmatは全部持ってましたね。Transmatの前にMetroplexっていうのがあって、それも番号順に集めてました。

――完全にコレクターですね(笑)。

KO:そう、洋服とかもなんでも集めるのが好き。

――今までどれくらいレコード買いました?

KO:もうわかんないな〜。家にあるものだけで一番多い時は2万枚ぐらいあったかな(笑)。

ハウスが二分する中、伝説の芝浦GOLD誕生!

――ようやくハウスに辿り着いて、その後はどうなったんですか?

KO:ハウスが始まった後にアシッドブームがあって、なおかつ80年代後半には“セカンド・サマー・オブ・ラブ”でレイヴっぽいのが流行ってきて。その頃はニューヨークでもヨーロッパ産のハウスが流行りだしたんですよ。アメリカはそれまでMichael JacksonとかCeCe Penistonとか黒人音楽が中心だけだったけど、TechnotronicとかBlack Boxとか白人のオシャレな音楽も人気になってきて。一方で根強いディープハウス好きの人もいましたけどね。

――白いヨーロッパ系と黒いディープハウスが二分していたと。

KO:そう。僕は白い方が好きでしたけどね。あと、当時ニューヨークに行くとLarry Levanの後継者……Paradise GarageではLarryがNo.1で、No.2的なポジションにDevid De Pinoがいて、彼は黒人じゃなくてラテンの血が入ってたから白い曲もかけるし、Paradise Garageが終わった時点でLarryは干されたけどDe PinoはTracksっていうクラブで火曜日にゲイナイトをやってて、それがものすごく盛り上がってたんですよ。MadonnaのダンサーとかKeith Haringなんかもいてめちゃくちゃ面白かったですね。そういうのを見て、より一層ハウスにハマって、逆にヒップホップは当時危なすぎたんです。ニューヨークでヒップホップのパーティに遊びに行こうとするとタクシーで護身用にって拳銃を売りつけられそうになったり、クラブで撃ち合いがあったり(苦笑)。それが80年代後半のことですね。

――ヤバいですね(苦笑)。

KO:その頃、日本では西麻布にバブリンダブ、CLUB JAMAICA、P.PICASSO、TOOL’S BARがclub tolosになったりしつつ、クラブ系が増えてきたんですよね。あとはクラブキングがたくさんのDJが出演する「革命舞踏会」ってパーティを年に1〜2回やってたり。

――それはどこでやってたんですか?

KO:青山のスパイラルホールとか、恵比寿にあったガーデンホールとかいろんなところで。

――そして、80年代後半には芝浦に伝説のクラブGOLDができたんですよね。

KO:89年ですね。その前の年に六本木にAnother Worldっていうクラブができて、そこはもう真っ暗で日本中のかっこいい不良、尖った人がみんな集まるみたいな。お店の中ではハウスがかかっていて、外人もいっぱい来ていていつも混んでて。海外のクラブみたいな感じでしたね。

それで僕がそこでDJをしてたら元トゥーリアで後のGOLDの佐藤社長が視察に来て、今度クラブを作るからDJをやらないかって誘って頂いたんですよ。で、行ってみたらニューヨークのナイトクラブを意識していたからいいなと思ってやりだしたんですけど、(GOLDのレジデントには)DJ HIRO君もいて。彼はアンダーグラウンドな黒い音楽で、僕はどちらかというと白っぽい音楽。それって当時のニューヨークと全く同じで。ちなみに、向こうではParadise Garageと白人音楽メインのThe Saintっていう大きいクラブがあって、The SaintでNAOちゃんがDJしてたんですよね。

――NAO NAKAMURAさんですね。

KO:そう。The Saintの2番手ぐらいで、80年代はNAOちゃんがニューヨークで一番成功した日本人DJだったと思います。

1980年代後半、NYで最も成功していた日本人DJ

――NAOさんというとハードハウスのイメージです。

KO:当時はバリバリのハイエナジーでSylvesterとかDivine、あとはDead or Aliveの“You Spin Me Round”とかをかけてましたね。“You Spin Me Round”はユーロビートのディスコで流行ったんだけど、それをハイエナジーみたいにかけるのがかっこよかったんですよ。The Saintって日本ではあまり話題にならなかったけど、当時のニューヨークではParadise Garageより成功していたと思う。

――そういう情報はあまり日本に入ってこなかったんですか?

KO:全然入ってこなかったですね。みんな黒人音楽の方が好きだったから。音楽自体、ハイエナジーもユーロビートも同じ音楽みたいに思われていたけど、実はその2つは全然違う。そういう文脈で聴く人がいないから残念ながらその文化は日本で成熟しなかったんだと思いますね。

The Saintも本当にスゴい箱で、ゲイナイトとかめちゃくちゃ盛り上がってましたね。当時のクラブはあっても学校にあるようなオーバーヘッドプロジェクターくらいしかなかったんだけど、そこはダンスフロアの天井がドーム状でプラネタリウムになってて、フロアの真ん中にプラネタリウムの機械があったんです。その天井が突然星空になったり、スポンサーのSONYの文字が飛んでたり。ちなみに、当時プラネタリウムって軍事機密だったらしく、それをゲイのみなさんの謎の人脈で手に入れたって話を聞きました。当時からゲイのコミュニティってスゴかったんです(笑)。

――そんなところでNAOさんはやっていたんですね。

KO:そこで大成功していたんだけど、結局The SaintもクローズしてNAOちゃんはTRACKSではDJしてましたが「ニューヨークでDJしてる意味がない」って帰国することになって。それが1988年ぐらいだったかな。僕は渋谷のJ TRIP BAR、J TRIP BAR DANCE FACTORYっていう東京で唯一ハウスをかけるお店でDJしてて、ある時、企業のイベントで海外からハウスDJを呼びたいってなってFrankie Knucklesを呼ぶことになって、NAOちゃんと一緒に来るってなって。その時に面白かったのは、広告代理店の人がFrankieが登場する時のテーマ曲を作りたいって、プロレスみたいな(笑)。

世界のSatoshi Tomiie先生爆誕の瞬間!

――登場曲みたいな感じですか?

KO:そうそう。それで「誰が作る?」ってなった時にそのイベントの広告代理店で音楽関係のバイトしてた(Satoshi)Tomiie君が選ばれて、突然「ハウスを作れ!」って言われたみたい。Tomiie君も当時バリバリヒップホップだったからハウスは専門外で、共通の友達のDJ IZU君を通じて僕に「ハウスってどんな感じ?」って話になって。それで僕は「今はアシッドが流行ってるよ!」ってACID TRACKS2というTRAXレーベルのアシッドの曲ばかり入っているオムニバスの第2弾を紹介したらそれをサンプリングして作って、そしてアナログになってそれをFrankieが気に入ったっていう。

しかも、その時Frankieはニューヨークに引っ越したばかりで一緒に音楽を作る人がいなくて新しい曲が作れなかったんだよね。そんな時に当時大学生のTomiie君と出会って、Tomiie君もハウスに興味を持って、Frankieが帰国した後にTomiie君がスタジオに入って、ハウスとその時に旬だったデトロイトテクノみたいなのも作って、それをFrankieに渡しに行こうってタイミングで僕もNYに行こうと思っているって感じで2人でニューヨークに行って、その時のデモテープが“Tears”。それでTomiie君は大学在学中からハウスの作曲を始めて卒業後にFrankieもいるFOR THE RECORDというレコードプールの会員にもなりで。

――アーティストSatoshi Tomiie誕生秘話ですね!

KO:当時はまだDef Mix(Productions)もなかったんだけど、Tomiie君はDavid Moralesの曲作りも手伝ってて、最初はブルックリンのMoralesの家に居候してたんですよ。ちなみにDef MixってMoralesとFrankieとTomiieくん3人で始めたんだけど、その名前は実はDef MixのDMはDavid Moralesのイニシャルで、発案はモラレスだったりで。

――確かに。Tomiieさんとはその頃からの付き合いなんですね。

KO:当時は他にもみんな近い界隈にいて、UFO(矢部直、Raphael Sebbag、松浦俊夫)がクラブキングでバイトしてたり、RANKIN TAXIとかECDもいたし、ちょっと後には僕がいたJ -TRIP系ではZeebra君が、他にもMURO君が出てきたり。みんな同じようなところで活動してましたね。そんな中でフリーランスのクラブDJとしては、やっぱり第一人者はヒロシ君だったと思う。

日本のクラブDJの第一人者、藤原ヒロシのスゴさ

――藤原ヒロシさんのDJって曲を繋いでいくタイプじゃないですよね?

KO:ヒロシ君は選曲で面白いことをやる、その場で音楽のオシャレな空間を作るみたいな感じですね。彼はオープンリールで編集して曲メガミックスも作ってたんですよ。いろんなところからネタを引っ張ってきて面白い編集テープを作るみたいな。それこそヒップホップからレゲエ、ニューウェイブまでなんでも使って。どちらかというと今のマッシュアップみたいな感じかな。

――今っぽい感じですね。

KO:そうですね。それをヒロシ君は1985年とかにやってた。しかも、それが本当に面白くて。いいネタ、いい曲を見つけてきて、うまく編集して紹介する、まさにキュレーターですよね。今のヒロシ君の仕事、洋服とかもそんな感じで変わってない。ちなみに、そんなヒロシ君の全盛期に運転手をしていたのがNIGO君で。ヒロシ君にそっくりだったから皆が“藤原ヒロシ2号”って呼んでたのでNIGOね。

――その頃KOさんはどんな感じだったんですか?

KO:僕は西麻布とかいろんなとこで毎日ウイークリーのレジデントも持っていたんだけどGOLDで毎週金曜日にDJをするようになって、契約で東京ではGOLDでしかできなくなっちゃったから、金曜はGOLDで土曜日は地方に行ったりしてました。80年代中頃はディスコしかなくて地方にはDJバーしかなかったけど、後半になると徐々にできてきたから。

“クラブDJ”という職業は85〜86年ぐらいから始まったと思うけど、当時は本当に小さいコミュニティだからみんな知り合いみたいな感じで、新しい文化だから競合は少なかった。でもその分みんな音楽が好きすぎてスゴかったですよ。めちゃくちゃ知識があって、ある意味みんな本物のオタクだったと思う(笑)。

今は“DJ=かっこいい・モテる”みたいなイメージがあるかもしれないけど、昔はDJになるとレコード屋とそのジャンルを象徴する服にしかお金を使えなくなるし、つるむのは男だけだし完全にモテない仕事。今はSNSもアリ、ファッションとかも絡んで華々しい感じだけど、当時は本当に中身は音楽オタクばっかりでしたね(笑)。  

そして激動の1990年代以降へ、#2に続く……

KO KIMURA

2025年でプロDJ歴40年を迎えた、云わずと知れたカリスマDJ。クラブ創成期から現在までシーンをリードし続けているのは勿論、特に国内のHOUSE MUSICシーンにおいて、現在活躍する多くの若手~中堅DJたちに多大な影響を与えてきたDJでもありエレクトロニック・ミュージックシーンにおいて最も大きな影響力を持つアーティスト/DJ・プロデューサーの1人。 また、DJ活動の傍ら1940年代のオートバイのレストア方法をハーレー誌に連載したり世界中の食べ歩きが記事化されたり、アニメーション関連の活動も積極的に行うなど、過去の布石やカルチャーメイクだけに留まらず現在進行形で活動中。

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