EDC JAPAN開催のキーマン、GMO SONICの仕掛け人にして、古くはFerry CorstenやArmin van Buurenらの初来日に貢献。さらにはDJ・アーティストとして世界有数のビッグフェス&クラブでプレイし楽曲もリリース。一方でビジネスマンとしても様々なプロジェクトで活躍……独自の道を歩み、稀有なポジションを築いてきた異端児Yuuki Yoshiyamaにインタビュー!

話を聞いてみると意外すぎるルーツが……

そして、学ランでクラブに通い、日々ブースに立っていた驚くべき過去……

さらには、脅威の人脈・コネクションにEDC JAPAN開催の裏側など、興味深い話題が続々と……。DJとビジネスの両輪で世界を駆け巡るYuuki Yoshiyama、その正体、素顔に迫る!

◆ルーツは“ジュリアナ”、地元・大阪で学ランDJ

――Yuukiさんがダンスミュージックにハマったきっかけ、ルーツは?

Yuuki:実は“ジュリアナ”なんですよ(苦笑)。

――世代的にはど真ん中ではないですよね?

Yuuki:(ジュリアナが流行したのは)僕が小学生の時ですね。当時周囲がCHAGE&ASUKAやミスチルを聴く中、ジュリアナのコンピレーション(CD)を聴き漁っていました(笑)。

――早熟ですね(笑)。

Yuuki:(ジュリアナを聴いていたのは)学校で僕だけでしたね。昼休みに校内放送をジャックしてジュリテク(ジュリアナ・テクノ)をかけて先生に怒られたこともありました(笑)。ジュリアナで“DJ”の存在を知り、「将来はこれだ!」って思ったんですよ。

――小学生の頃からDJになろうと思っていたと。

Yuuki:そうですね。ダンスミュージックを知って、DJという存在に気づいてからはいろいろなコンピを聴いてました。当時はたくさんのディスコ系コンピがあったので。ただ、まだインターネットも普及しておらず、Microsoft Windows 95が出てから徐々に海外と繋がり、いろいろ楽曲を調べるようになり、そこからどんどん深掘りしていくようになりました。

――それは何歳ぐらいのことですか?

Yuuki:高校生ぐらいですね。僕は高2の頃にはDJをガンガンやってまして、(地元)大阪・心斎橋のNEOにレギュラーで入っていたんですよ。昼間は学校に行って、学ラン着たままレコード持っていってDJやるみたいな。

――高校生がどんな曲をかけていたんですか?

Yuuki:純粋なテクノというよりもレイヴっぽい感じだったり、当時“Nu-NRG(ニューエナジー”と言われていたジャンル、例えばロンドンだとTradeとかでかかっていたような感じでした。

――UKハードハウスとか?

Yuuki:そうですね。BPM135〜145ぐらいのハードハウスやキックが硬くてトランスに近い感じの曲。今でいう所のいわゆるハードダンスみたいな感じですね。当時はYOJI(BIOMEHANIKA)さんが大阪でバリバリやってて、すごく憧れの存在でした。

僕が大学に入ってからも東京や各地のパーティに呼んでいただいて、新宿・歌舞伎町にあったCODEや渋谷のASIA、六本木COREなど、実にいろいろなところでDJをやらせてもらうようになりました。

◆約3ヶ月で開催に…EDC JAPAN誕生秘話

――Yuukiさんが最初に影響を受けたアーティストは?

Yuuki:間違いなく、ジュリアナやヴェルファーレで活躍していたJohn Robinson。すごくわかりやすい入り口だったと思います。DJ活動開始から5年ほどで彼と共演した時には夢がかなったと思いました。ほかにもPraga KhanとかJames Brown Is Deadなどのレイヴ系サウンドからは確実に影響を受けました。

その後はよりアンダーグラウンドなハウスやトランス・テクノにも傾倒していきました。日本でいうCyber TRANCEのムーブメントに先駆けて1997年前後からトランスのイベントをやっていましたね。そこでFerry CorstenやArmin(van Buuren)が登場してきます。

盟友Ferry Corstenと

――Ferry Corstenというと日本でも(System F名義の)“Out Of The Blue”が大ヒットしましたね。

Yuuki:“Out Of The Blue”を出してすぐに彼が初来日したんですけど、その時は僕も一緒にツアーに帯同してDJをやらせてもらったんですよ。それ以来Ferryとは20年来の親友で、昨年も彼のジャパンツアーをアレンジさせて頂きました。

2000年代になってArminやTiëstoらが来日した時も僕はサポートDJをやらせていただいていました。その後「EDC JAPAN」の主催者として彼らと日本や世界各国で「あの時は若かった!お互い歳をとってステージが変わったね(笑)」って感慨深い再会を果たしました。

――2000年代初頭は日本でもトランスが爆発的に流行し、シーンのど真ん中にいたわけですが、徐々に離れていかれますよね?

Yuuki:大学時代に事業を立ち上げまして、それが忙しくなったことや、事業譲渡した後に会社勤めを少しやって、そこからまた起業、そこから20冊以上出版したり、講演活動やコンサルとして全国行脚するなど、目まぐるしい日々の中でなかなかDJ活動が続けられるかどうかわからない局面もありました。とはいえ、月に1回はDJを続けていました。

僕個人的には「やること」よりも「やらないこと」をハッキリさせるのが大切だと思っていますが、DJに関しては辞める理由よりも続ける理由を追究するほど、自分自身のライフワークだと思っています。

そんなある日、2014年でしたが日本を代表するインターネット起業であるGMOインターネットグループの熊谷代表から、急遽お食事に誘っていただくということがありました。これまで自分自身の熱を注ぐ趣味の1つであるシャンパーニュの会合などでお見かけしたことはあったのですが「食事とは何だろう?」と思いながら、光栄なことなのでご一緒してみました。

「グループとしてユースカルチャーの支援をやりたい。そのための会社を作るからそこの社長をやってくれ」という言葉を頂いた時は、まさに青天の霹靂でしたね。

GMO熊谷代表と

――そこから「EDC JAPAN」が生まれたと。

Yuuki:そうです。そこから急ピッチで2014年の11月に会社が立ち上がり、様々なプロジェクトを進行させました。何か大きなムーブメントを起こしたいという想いで、12月にはLAのInsomniac(EDCの主催会社)に飛びました。そこから毎月弾丸でLAに行ってわずか約3ヶ月で交渉がまとまったんです。

今思えば、あれは本当に“急襲”でしたね(笑)。当時国内では「ULTRA JAPAN」が初開催され、日本の様々なプレイヤーが一気に海外フェス招聘に動かれていたんですが、後々話を聞いてみると、僕は他の方と全く別のアプローチになっていたことが功を奏したようです。

それは、多くの方がお金や契約の話を真っ先にする中、僕は最初に好きなアーティストや当時の音楽、フェスなどシーンに関する話をして、担当者たちと一気に共通の話題で盛り上がったんですよ。「お前は遠く離れたアジアで俺らのカルチャーのことに長年触れてくれている理解者だ!」と意気投合しました。

EDC創始者のパスクアーレ氏、現千葉県熊谷知事と

そこから様々な準備期間を経て、2017年に第1回目を開催し、その後コロナ禍直前の2019年まで開催しまして、3年間累計約25万人を動員しました。

◆DJとビジネスの両立…それが大きなアドバンテージに

――GMOやInsomniacの件でもありましたが、ビジネスとダンスミュージック、双方に精通しいているのはYuukiさんの強みだと思います。あまりいない存在なのかなと。

Yuuki僕がDJを続けている理由は、もちろん純粋に音楽が好きだからというのもあるんですが、DJ・プロデューサーとビジネス・ディベロップメントを並行することは特に海外だと大きなアドバンテージになるんですよ。30年前に始めたDJが今になって活きていて、当時から積み上げてきた点と点が繋がって今に至っているんですよ。

現在、30を超える名刺・肩書をもって活動しています。その内の1つがシンガポール投資ファンドの一員として仕事をしていますが、単なる金融ではなく、保有しているアセットに対してもコンテンツを付与することが価値を創造するために重要なことである、ということを皆さんよくご理解されています。僕自身は音楽のみならず、様々なエキスペリエンス(体験)や食・ウェルネス・スポーツ・トラベルなど、あらゆるライフスタイルを創造するコンテンツプロデューサーでもあります。

カルチャーはカルチャー、ビジネスはビジネスではなく、両者がハイブリッドにミックスされていくことが昨今の流れだと思うんです。コンテンツそのものは単体で存在するよりも、様々な掛け合わせ・組み合わせでこそ真の価値が生まれると信じています。それらを料理したり、橋渡しができる人がまだまだマーケットに少ないんだということを痛感します。

――Yuukiさん自身はDJ、イベントオーガナイズの他、楽曲制作もされていたり音楽活動は多岐に渡りますが、どこに最も楽しみを感じていますか?

Yuuki:みんなが集まって一体感が生まれ、そうすると笑顔も生まれる。笑顔が集まれば最終的には経済的な結果としても跳ね返ってくるというところでいえば、オーガナイズやプロデュースが性に合っているかなと思います。

最近は毎日何かしらプロデュース案件が舞い込んでくるような状況で、非常に忙しくさせてもらっていますが、やはり大勢の人がひとつになった時のエネルギーや一体感、そしてみなさんの笑顔が次への励みになりますし、もはやある種の職業病というかその快感、達成感の中毒になっているんでしょうね。

イベントやパーティ以外にも外資系ホテルのプロデュースや日本各地での海外旅行客向けのホスピタリティ事業などもやっていますが、基本的には“おもてなし”の精神、みなさんに喜んでもらいたい、それが根幹にあるかもしれないです。

◆今、注目するはドラムンベース、アフロハウス

――Yuukiさんが今、注目しているジャンルは?

Yuuki:ひとつは世界的にドラムンベースが復活していると感じています。あの素晴らしいグルーヴ感を他のジャンルのDJも取り入れていますよね。

日本の文化的なところでいうと、僕はもっと“アフロハウス”が定着すると思っています。アフロハウスの延々と聴いていられる心地よさは日本のカフェ&ダイニングカルチャーとの親和性が高いと思いますし、なおかつHugelに代表されるアーティストがスターダムに駆け上がり、グラミーなどでも評価されていますよね。

そして、最近は小箱やラウンジ、バーも増えている中、アフロハウスはそうしたところでの機能性も高い。フェスや大箱クラブに限定されない絶妙なサウンド、カルチャーとして、より浸透していくと思います。

――普段はどういった観点でシーンを見ていますか?

Yuuki:ひとつは成長度ですね。例えば今後伸びるアーティスト、次に来るアーティストであるかを考えています。やはり早い段階でコンタクトを取っておくと後々強いですから。ただ、そこでいち早く日本に呼んでもお客さんを動員できるかは難しいところですが(苦笑)。

――DJをする時はどうですか?

Yuuki:出演するイベント、規模感によりますね。例えば「The Magic of Tomorrowland上海」(2025年10月開催)では2,000人ぐらいのキャパだったので、そうなると大箱的な楽曲でアゲていきましたし、(関西・大阪)万博も12,000人ぐらい入っていたのでジャンルもBPMも幅広く振り切った感じでプレイしました。

一方でディレクターを務めるW大阪でDJをする時は、よりアンダーグラウンドというかディープでクールな感じにして、リアルタイムでパッドを叩いてパーカッションを入れたりすることもあります。実験的な感じですね。

アンダーグラウンドからオーバーグラウンドまでいろいろな現場があって、どれもひとりの演者として参加していることは、現場でどんな音が最も求められているのかを把握するためには重要なことです。現場を見ないと何も分かりません。

こうしたプロデューサー目線での経験がDJ・アーティストとしてのブッキングにも活かされていると思います。だから、今の仕事は全てがあって成り立っているんですよ。

#2に続く…

Yuuki Yoshiyama(吉山勇樹)

1996年、高校生にしてDJ活動を開始。数々のビッグネームの初来日に関与し、多くのトップDJと共演。音楽分野のみならずビジネスパーソンとしては30社を超える企業の役員・社外取締役などを現任。著者累計は90万部超。シャンパーニュ騎士団オフィシエやOMAKASE顧問など食文化の領域にも精通する。フェスティバルプロデューサーとしても世界三大フェスEDCの日本開催の総指揮、2023年からはGMO SONICのエグゼクティブ・プロデューサーとして辣腕を振るう。大阪万博で唯一のダンスミュージックフェスとして12000人を動員したCommon Ground Music Festivalの総合プロデュースなども手掛けた。 同時にDJ・アーティストとしてTomorrowland(ベルギー)やEDV Las Vegasなどに出演するなど国内外を駆け巡るなどグローバルレベルで稀有なマルチタレント。