日本のクラブ黎明期から活動し、シーンの酸いも甘いも知り尽くすKO KIMURAにインタビュー! 第二弾は1990年代から2000年代、EDM全盛、そして現在まで。さらには今後のことも!!!!!!!
▶︎▶︎▶︎1990年代に流行したEDMにも通じるハウスとは?
▶︎▶︎▶︎一斉を風靡した“ハッピーハンドバック”
▶︎▶︎▶︎やっぱりJunior Vasquezはスゴかった!
▶︎▶︎▶︎世界中が憧れたNYの伝説的クラブとは?
▶︎▶︎▶︎ディープ化の反動から!? EDM誕生の背景
▶︎▶︎▶︎90年代、世界中のDJから愛されていた東京
▶︎▶︎▶︎KO KIMURA思い出のクラブ、RADIO CITYとは?
▶︎▶︎▶︎日本はまだまだこれから! KO KIMURAの野望とは?
日本でクラブシーンが大きく盛り上がった1990~2000年代、かたやEDMが盛り上がるも問題が勃発、挙げ句の果てにはコロナで危急存亡のテン年代。そこから息を吹き返し、これから先は……KO KIMURAが見据える日本の未来、そしてKO KIMURA自身がやりたいこととは……今回も見事な日本のクラブシーンクロニクル、必見です!
インタビュー第一弾「DJ歴40超KO KIMURAに訊く日本のクラブ&ハウスの歴史#1 爆ぜる東京カルチャー…激動の1980~90年代」はこちら!
◆世界を席巻したNYハードハウス旋風
――90年代に入ってハウスはどうなっていったんですか?
KO:80年代半ばにはニューヨークにWorld そしてTracksが開いて、87年にParadise Garage、そして88年にSaintがクローズ。80年代後半にはSound FactoryやMARSやRedZoneができて、特にSound Factoryの影響がNYでは大きく、みんながそういったかっこいい場所で映えるホンモノのハウスDJをしたいとか、そんな空間で映えるハウスやテクノを作りたいっていろいろな人が思い始めた一方で、特にここ日本では音楽マニアとしてアンダーグラウンドでParadise Garageクラッシック的なトラディショナルな深い音楽をやりたい人もいて、その方面はその当時の最新のディープハウスやDef Mixのリミックスものとかと違う方向にとハウスはどんどん二分していったわけですけど、ニューヨークでもメジャーなアーティストのMariah CareyやMadonnaやMichael Jacksonのハウスリミックスみたいな音楽も流行った事により、日本でもビルボードのTOP100みたいなヒット曲がいつもかかっている様なディスコと張り合えるパワーが90年代に入ると今で言うクラブ系でも出てきたんですよ。
日本は89年にGOLD、90年代になってYELLOW(西麻布Space Lab YELLOW)とかMANIAC LOVE(青山)、新宿にLIQUIDROOMができて、あちこちでハウス/テクノ系のパーティをやるようになって、アンダーグラウンドにハマる人が増えてきた感じですね。
――その中でも当時はやっぱりGOLDが人気だったんですか?
KO:大箱としてはもちろんね。週末は金曜・土曜ともに集客数で2,000~3,000人とかな感じでしたし。でも、小箱でもMANIAC LOVEとか他にも盛り上がってるところはいっぱいありましたよ。東麻布のJ TRIP BAR系列のENDMAXとか西麻布のJ TRIP BAR WANNA DANCEとかも。特にENDMAXはWilliam S Burroughsっていうアメリカの作家がプロデュースしたお店で初めてLarry LevanやDavid DePinoを呼んだりして音楽も気合い入れてましたが、そもそも当時日大芸術学部の武邑光裕先生監修のお店自体のコンセプト作りが面白かったですね。また、その頃もうオープンしていた初期のYELLOWはディープハウスやジャズとかでも人気でしたし。
僕は契約社員を辞めた後もGOLDでは引き続き月に何度かDJしたり、そのGOLDで日曜にゲイナイトをやっていたからゲイナイトでDJすることがより多くなって、その後、日比谷のRADIO CITYでもゲイナイトをやってましたね。
93~94年ぐらいからニューヨークハードハウスが流行りだして、僕はそっちの音楽が好きだったからよくかけてて、ニューヨークのハウスを追求すると自然とそういうところに呼ばれるみたいな(笑)。また(新宿)2丁目にできたBar Delightっていうお店でもDJしてました。そこは狭いんだけどニューヨークのアンダーグラウンドなゲイクラブみたいな感じでハードハウスがかけられて、普通にLGBTQの人たちが遊んでて本当にNYのアンダーグラウンドなクラブみたいだな~って面白かった。そこでNAOちゃんと毎週水曜に2人で1時間交代でDJやったり、新宿のLOQUID ROOMでもMENオンリーのパーティとかでDJして楽しかったですね。
ちなみに、一般的ないわゆるディスコと呼ばれるところでは、91年にジュリアナ東京ができてお立ち台に乗るセクシーな女子とジュリアナテクノと呼ばれる音楽が評判でしたが、実はGOLDではかからなかったKLFとかThe Prodigyとかみたいな音もジュリアナではかかってました。またRozallaみたいなUKハウスというかイビサっぽいバレアリック風味を感じる音も結構ジュリアナではかかっていましたというのは補足で。
僕もその辺の音で「カッコイイのはかけてもいいだろ!」って思ってGOLDでかけてたら、その頃NYのSHELTER方面寄りだったGOLDの方に「こういうのはかけなくてもいい」とキッパリ言われた思い出もあったり(笑)。
――KOさんはYELLOWでもレギュラーパーティ「KOOL」をやってましたよね。
おうKO:YELLOWでの「KOOL」は95~96年ぐらいにスタートして、12~13年ぐらいやってましたね。多分YELLOWの最長寿パーティじゃないかな? UFOがやってた「Jazzin’」がその次くらいの長さな気がします。97~99年ぐらいがハードハウス全盛で、その後は徐々にヨーロッパの音楽、エピックハウス・エピックトランスからダッチトランスが流行ってきた感じ。巷ではそれがCyber TRANCEと言われるに変化して。
――ハウスは1990年代前半から半ばに浸透していったんですね。
KO:クラブに遊びに行かない層もUSのハードハウスを耳にするようになってましたからね。それこそMadonnaやMariah CareyとかMichael Jacksonとかもハウスバージョンをガンガン作ってましたし、僕の守備範囲外ではあっても小室哲哉さんのTRFというかTK RAVE FACTORYというイベントとかも既に90年代前半からあってダンスミュージック仕立ての曲が増えました。
僕は面識ないのですが、多分小室さんはネーミングからしてその90年代前半のヨーロッパのレイヴ文化を見て「ああいうのがやりたい!」って思われたんでしょうね。
――90年代後半はKOさんもかなり積極的に活動されてましたよね。
KO:僕はまず「ULTIMATE DJ’S ANTHEM」っていう、おそらく日本で最初のDJによるミックスCDを95年にTOSHIBA EMIから出して、その後97年にWARNERから「Mix Work」。2000年にTOY’S FACTORYから「Ko:hear:ency」を出して、その後はBedrockのミックスCDを出したりプログレッシヴハウスの方になっていって。
――John DigweedやSashaとよく共演していた記憶があります。
KO:2000年代になるとハードハウスからプログレッシヴハウス、あとはエピックハウスやトランスがCyber TRANCEみたいなのに変化してディスコ系では主流になっていって。そこで僕はかっこいいクラブ系ダンスミュージックを求める中でプログレッシヴハウスとリンクしていったんですよ。
◆伝説のJunior Vasquez、Sound Factory~Twilo
――海外ではどんな流れがあったんですか?
KO:88年あたりから“The Second Summer Of Love”というレイヴ文化がヨーロッパで流行ってからイギリスとかでもダンスミュージックがどんどん大きくなっていき、1990年代半ばの95年とかはロンドンのTrade周辺の人たち、後にワープハウス系の人たちやHuge Tunes周りの人たちとか、他にもAshley Beedle(X-Press 2)とか、みんなJunior VasquezがDJしてたSound Factory系の音に直接的でもあり間接的でもあったりしてても結構影響を受けてた印象です。
Sound Factoryの住所の“West 27th street”をリミックス名やアーティスト名にしていたりしてたので、それを見て「やっぱり君もSound Factory好きなんだね?」みたいな感じでニヤッとするみたいな。彼らはそこから独自にヨーロッパで進化させていった気がします。
ロンドンでもJuniorはコアな人に神格化されていたのですが、実際97年にJuniorがMinistry of SoundでDJした時にはロンドンのコアなクラブキッズがSound Factoryサウンドを期待して行ったのに、ある意味NYのゲイテイストというかオカマ節全開でDJしてしまったみたいで「思っていた硬派なかっこいい音じゃないじゃん~」って感じで大コケしてしまった。と、実際にMinistryまでJuniorを見に行ったJohn Digweedが「Elton Johnとかかかってて、みんなどうしていいかわからなかった」と一緒にご飯食べに行った時に漏らしてたので多分本当の話を小ネタとして。
――そのSound Factoryの後にできたのがTwiloですよね。
KO:そう。Sound Factoryを改装して1995年にTwiloになった。最初はDef Mixがプロデュースして、Frankie Knuckles、David Morales、Tomiie君が交代で土曜にやってたんですけど、FrankieやTomiie君も世界中で忙しくなって来た頃にDanny Tenagliaがレジデントになり、またJuniorが復活しましたが。金曜はSasha&Digweedが入ってきた感じ。あとはCarl CoxもDJしてましたね。
――ヨーロッパのDJたちもいよいよアメリカに進出していったんですね。
KO:Sasha&Digweedは2000年代になってDELTA HEAVY TOURとかでアメリカ全土を周って人気になって。それとは逆に僕が好きだったNYハードハウスが歌物のリミックスと融合して勢いがありすぎるというか下品なものが増えてきてしまい、Jonathan Peters とかThunderpassとかのリミックスとかもあまりにアゲすぎて音的に僕的にはド派手でついていけない感じになっていたんですよ。一方でDigweedがやってたBedrock界隈はアンダーグラウンドでありつついい塩梅の適度なメロディアス性もありつつの方向に行って、それが良かったんです。
ハウス・テクノを含めたヨーロッパのダンス文化が大きくなったということで「もうニューヨークの時代じゃない!」みたいな感じになって。実際、その当時はJunior VasquezがいたTwiloと色々あってTunnnelに移ったりTwiloに戻ったり、そしてPalladiumに移動したりとか微妙な感じになっていきましたし。
◆EDMの隆盛、クラブの変化、そしてコロナ…
――当時はエピックトランスやダッチトランスも流行ってましたよね。
KO:本気のサイケ系のトランスではない、オランダとかのヨーロッパのトランスですね。盛り上がってましたね。ただ、日本では後のCyber TRANCEと混同されて、ダッチ~エピック系のArmin van BuurenやTiestoみたいな人達はそのまま向こうでは元気でやってたのにCyber TRANCEの一過性の流行と一緒にされてしまって、逆に日本の国内でのCyber TRANCEの終焉に巻き込まれてしまった感が。まあ彼らは後にEDMとカテゴライズされ、ジャンルごと名前を変え日本でもまた復活するからいいんですが、実際は別に彼らは復活したわけではなく日本のCyber TRANCE以降も向こうではずっと元気でした……みたいな。
あとはそのユーロトランスが流行ってるタイミングでアンダーグラウンド側では2000年代以降、ヨーロッパではハウスとテクノがディープ化してミニマルとかクリックとかが流行りだして、知的ではありますが地味すぎてちょっとハッピーなパーティな感じじゃなくなったりするんだけど、そこにはここでは言いにくい他の要因もあって……(苦笑)。
先ほどの話と歴史が前後しますが、日本はその要因があまりなかったから、わかりやすいパッケージのCyber TRANCE方面が一般の方とかにも流行したんです。その後も歌ものハウス、俗にいう“乙女ハウス”があったりね。
そして海外でもユーロトランスがちょいマンネリしたな~ってところから一転、流行が変化してきたんですよ。その頃NYハードハウスはもう終焉の灯火という感じでしたが、そこに大箱映えするUS歌物ハードハウスっぽいノリとトランスが混ざったような音がさらにいろいろと進化した感じの“EDM”というジャンルが出てきてメジャーシーンでも大ヒットで、そしてそんな音がフェスにベストマッチした感じ。
2000年代頭のマイアミの「ULTRA(Ultra Music Festival)」のメインがSashaやDigweedとかCarl Coxだったのが、いつの間にか2000年代後半にはEDMになって、その後も大きなフェスと相まってどんどん盛り上がった。そしてSashaやDigweedとかCarl CoxみたいなDJがメインでなく別のステージに立つようになるみたいな。
――いろいろな反動でEDMが生まれてきたと。
KO:やっぱりフェスは明るい音楽の方が盛り上がって楽しいですからね。あとアメリカではずっと昔からからMTVとかはR&Bが主流で、ハウスやダンスミュージックはゲイミュージックと見なされているところがあって多くの地域というか、もはや全米で一般の人には「オカマな音楽なんて聴いてんじゃねえ~、男はロックかカントリーだ!」みたいな感じでタブー視されていたんですよ。でも、それがエレクトロニックダンスミュージック~EDMになると全米で流行ってみんな許せるようになってきたっていう。先ほど言った別の要因もありますが。
そして、David GuettaやAviciiみたいなヨーロッパ圏の人がR&Bやカントリーのボーカルとダンスミュージックのハウスみたいなのををうまく昇華させて、限られたコミュニティの音楽じゃなくしたんですよね。まあ、ちょっとその時期は既存の音楽に飽きていた部分もあったと思いますけど。
――アメリカで人気を得たからこそ規模感が大きくなりましたよね。
KO:マーケットが違いますからね。日本のハウス系のクラブではEDMが流行する少し前から音楽性がクールでカッコいい方向=地味でわかりにくい傾向になっていたのと同時にナイトクラブ業界がちょっと厳しくなっていたんですよ。2000年代半ばぐらいから風営法の取り締まりが厳しくなったのもありますが。その後、EDMで持ち直したけどEDMはフェス文化で、なおかつアンダーグラウンドな人を中心にやってたクラブがディスコ化というかビジネス化というか、VIPでシャンパン開けて採算を得る感じに変化していったんですよね。イビサがまさにその象徴で、90年代はヒッピーの街だったのに2000年代になると一気に変わりましたよね。そんなパーティ文化が日本では昔あったディスコ文化ともうまくリンクして華々しい新しいクラブカルチャーとして人気になって、一方でアンダーグラウンドなクラブは風営法の問題もあり、さらにはコロナになるっていう。
でも、今はアンダーグラウンドなクラブにも徐々にお客さんが増えている気がしますね。例えば渋谷のMITSUKIとか不眠遊戯ライオンとかは小箱らしいアンダーグラウンドな空気があるし、そういうのが好きな人たちが集まるようになってきてる。それは1985~86年に西麻布で小箱が盛り上がってきた感じに近いんじゃないかなって思います。
◆DJ歴40年を超え、最近はある変化が…
――ローカルにも小箱ができて、かなりエッジーなことをやってると聞きます。
KO:昔もそんな感じだったからね。同時多発的なところがあって。やっぱりメジャーな音楽が流行った後は、その反動で逆の勢力が生まれるんですよ。あと、自分が歳をとって思うのは、僕が若い時もその時の流行りに対してマウンティングしてきて、あれこれ言ってくる様な「面倒な説教ジジイがいるからウゼー」って思ったけど、今の若い子も同じような気持ちなのかなって(笑)。だから、僕は新しい音楽をバカにしないようにしてる。それを言っちゃうと今度は僕が老害になっちゃうので(笑)。
――いつの時代も同じなんですね。
KO:流行もいずれは終わっていくわけですけど、僕はその飽きてきた人に”次に面白いもの、かっこいいと思えるもの”を提供できるように常に新譜を提供してます。
新譜に拘っているのはファッションと同じでいつも最新の物が好きでそれを探しまくっているのが楽しいからで。
20~30年前とかの曲の中から良いレコードを探し出してきて、それを特別な音楽としてDJする人も結構いらっしゃいますが、僕はそれを新譜でやっているだけで結局やってることは同じです。そういうDJの方が20年後に探すような曲を今の新譜の中で見つけて今流行らせられたら嬉しいですし。
今、古いレコードを掘りまくっている人が、何故新譜を同じ様に掘らないのか?を疑問に思ったりしますが。
でも、本当に自分が大好きと思える曲を見つけ出してきて流行らせることが出来るのは嬉しいのですが、その後それに飽きたり、またそれをかけてると「まだあの曲かけてる」って言われてしまうような時まであってのかけるのをやめるということも体験するので、自分の中での旧譜をかけるというのは中々ハードルが高いのは否めませんが。いろいろDJも大変なんですよ。
そして、そんなかけることがなくなったヒット曲と同じように、昔は一定の歳になると遊びにいくところがなくなってしまって卒業みたいな感じになったりするんですけど、今は僕がDJをしてるところには若い子もいれば50歳をすぎた人もいるんですよ。歳を取ったり、ジャンルの流行りが終わると遊びに行くところがなくなって、クラブ人生自体が終わっちゃうって残念だと思うし、僕はそういう自分の音楽的感性が上がってしまった故のジレンマ的なのを感じてる人と、流行を数年追ってたらマンネリ化してきての結果飽きてきた人に、次に行く場所というか、もうちょい上級のダンスミュージックが聴きたい!みたいなことを思ってる人にまた新しい音楽を紹介できるようなDJがしたいですね。
昔はディスコに飽きたからアンダーグラウンドな音楽が聴けるクラブに行くようになるみたいなことがあったので、それに近い感覚というか。DJは年齢制限なんてないので60や70歳になってもできるし、また遊びに行きたい人も年齢制限なくナイトクラビングもできる。それはある種、夢と楽しみを与えることができる感じに近いと思うし。
――歳を重ねて何か変化したことはありますか?
KO:僕は基本飽き性なので新譜にこだわって、たまにあるそういう趣旨のパーティでもない限り基本普段のDJでは古い曲はかけなかったんですけど、今年がDJ活動40周年なので旧譜解禁パーティを多めにしてるんですよ。友達も亡くなったりして、トリビュートじゃないけど昔の曲をかけてみんなで偲ぶのもいいかなと思って。
そういう感じで音楽を聴くと「90年代後半の東京ってめちゃくちゃ弾けてたんだな~」って思いましたね。振り返ってみると遊ぶ人はめちゃくちゃ遊んでて、ハッピーハンドバッグみたいな音楽とか、名前からして音楽もめちゃくちゃでとにかく面白かった。そういう感じを思い出して、今またみんなで楽しめる場所で、かつ昔からのクラバーから今の若いクラバーまで満足できるようなところを新しい音楽で作れたらいいな~って思ってます。
◆世界中のDJがDJをしたがった街・東京
――KOさん的にはいつの時代が楽しかったですか。
KO:音楽マニアなので40年間いつもワクワクはしましたね。85年は「新しい音楽を俺たちが広めてる!」みたいな感じだったし、90年代に入るまでは完全にアンダーグラウンドで、一番DJしていたのもその頃ですし。月曜~金曜まで毎日いろんなところでレジデントして、土曜日は地方に行くので休みなしみたいな。
GOLDができてそれは終わりましたけど、GOLDはGOLDで最先端ニューヨークっぽくてクリエイティブなことを自分流にしてYELLOWやLIQUIDROOMも含め、いろいろな東京を代表する様な大箱でできたのはよかったし、2000年をすぎてクラブが盛り上がって、音がグローバルスタンダード方面に変わってからはBedrockのDigweedとかと一緒に東京でも大きなイベントをやったり、僕個人でも海外でDJの機会が増え音楽的にも、DJ・アーティストとして認められた感があったのは嬉しかったですし、EDMも初期は音楽的にもかなり面白かった。純粋に“エレクトロニック・ダンス・ミュージック”って感じでいい曲もいっぱいありましたからね。
――2000年を境にいろいろ変わった感じですか。
KO:クラブ自体はフェスも含め2000年代以降も大きく盛り上がっていったと思うんですけど、カルチャーとしては90年代は東京のDJのみんなが「世界に誇れる東京にしかないカルチャー」を作れて面白かったですね。ファッションも裏原とかが注目を集めるようになって“東京”が面白かったんですよ。
当時は世界中のDJが「東京でDJしたい!」って言ってましたし。David Moralesとかも世界の中で日本でDJするのが一番好きって言ってて、なんでって聞いたら「ステージ上でのMichael Jacksonの気持ちがわかるから」って(笑)。日本人はちゃんと音楽を聴いてくれるのですごくいい環境だって。あとはみんな地元ではできない本気で気合い入れたDJが東京ではできたんだと思いますね。お客さんが音楽を真剣に楽しんでくれるので本当に東京では自由にできた。
◆今後の日本のシーンは期待大!!!!!!
――思い出に残っているクラブはどこでしょう?
KO:GOLDもYELLOWも面白かったです。BLENDっていうGAY MIXのパーティをMISSIONとLIQUIDROOMとvelfarreでやってた時も楽しかったですし。あとは日比谷のRADIO CITYのゲイナイトは一番ニューヨークのゲイパーティっぽい感じとその時代では一番の盛り上がりと一体感があってよかったですね。
――そこはどんなお店だったんですか?
KO:老舗のディスコなんですけど、毎月第2日曜日とかだけゲイナイトをやってて、それは一番ニューヨークのハードハウスや歌物が映えるパーティでした。MENオンリーでクローズドに行われていたので、より一層秘密パーティーというかアンダーグラウンド感がああるのもいい感じで。また当時はLIQUIDROOMでもゲイナイトをやってて、それは最初に80年代にミロスガレージ、GOLD、次に麻布のMission、それでLIQUIDROOMに移ったんだけど、それもどこも面白かった。まあ僕が影響を受けたNYのアンダーグランドなハウスのパーティに近いことができたってのが一番印象に残っているってことかも?って感じではありますが。
またゲイでないDJの僕をゲイの方達受け入れてくれる懐が広いところは、今で言う多様性のまさにそのものだと感じて感謝だなあ~と思います。
こうして改めて振り返ってみると、パーティ文化、クラブも変わりましたよね。2010年代以降はビジネスライクになって、お客さんというか、友達を呼べるDJのみが増えてDJのスキルやセンスが重要でなくなっちゃった感がありますし、フェスだって本当に上手なDJばかりかといえばどうかと思うし。それにSNSで有名なDJやクラブでやってないDJとかが増えたり。
あとはSound FactoryやTwiloで鳴ってた音の分離がいいナイトクラブでしか聴けないあの音……低音は弾むように太い音が足元がら来て、メロディは自分の目の上あたり、頭のあたりに雲のように漂っているように聴こえて、ハイハットが上から頭に降ってくるような3D感のある音を体感できる場所が40年DJしてても東京にはない。ナイトクラブで踊りたくなる、ワクワクする音がするお店が日本ではまだできてないんですよね。それも大きいかもしれない。僕はそれを多感な若い時に海外で聴いたから、それに映える音楽を集めたいと思ったし、それは今もやってるんだけど、そういう音がするお店がいつかできたらと思いますね。
――Twiloは本当にスゴかったんですね。
KO:Twiloもそうだし、Sound FactoryかTracksが一番印象に残ってますね。ロンドンのTradeも96年ぐらいに行って、当時はTony De VitやTall PaulとかがDJをしてましたけど、サウンドシステムの作りが90年くらいに行ったロンドンのクラブとかとは全然変わっていた。Sound Factoryに影響を受けてるのがわかったし。僕の中ではTradeとかの俗に言うUKハードハウスというかワープハウスはSound Factoryのかっこいい部分をうまく昇華させてでヨーロッパで独自に進化させていた感じがします。90年くらいにロンドンのナイトクラブに行った時はそんな箱鳴りがしているお店全くなかったので。
そんなTwiloとかSound Factoryみたいなサウンドシステムの音をいつか東京で出せたらいいなと思ってます。特別なスピーカーが必要なわけじゃなく、その感覚がわかってる人なら今でもできると思うので。
コロナ前に「Sónar(Festival/スペイン・バルセロナ)」のタイミングでRichie Hawtinが野菜市場の仮設DJブースで野外パーティをやってて、それがそのSound Factoryみたいな音が出てたんですよ。
100m先からそんなキックとハイハットの音が聴こえて、やっぱこの音だよなあ~ってワクワクしたのを覚えてます。だからサウンドシステムにお金かけてるとかでなく、そういう音に調整するセンスさえあれば今でも出そうと思えば出るんですよ。そんな場所ができれば今度はそこで映える音楽が作りたいって感じになって音楽を作る人のセンスも伸びると思うし、DJも「こういうところでやりたい!」ってなって、選曲も単にいい曲でなく、そのサウンドシステムで映える曲を見つけるセンスが育ちますし。そもそもその場所に行かないとその音は聞けないので、クラブに行く理由にもなるという。
――そこで新しいDJ・アーティストを育てていく?
KO:いつの時代も才能を持った新しい人が必ず出てくるもので、そういう人が出てくるとそれまでつまらなかったものが突然面白くなったりする。ファッションでいえばBALENCIAGAやDiorとかCELINEとか、一時は没落しておじさん・おばさんブランドだったけど、クリエイティブディレクターが変わるだけでいきなり若者に人気になるみたいな。新しい人が出てくることで面白くなるし活性化するので、そういう人が生まれる場所があったらいいなって思います。今の日本も全然終わってるわけじゃないし、新しいものがどんどん出てきているし、これからまたよくなってくる気がするんですよ。
それで最終的には日本ならではのカルチャーができたらいいですよね。僕は昔から東京はニューヨーク、ロンドン、ベルリンとかと並べるスペックがある都市だと思っているんです。一時期並んでいるかなって思ったけど、今はちょっと勢いがなくなってきているから、また新しい感覚で何かやらないといけない。昔を復活させるんじゃなくて、新しい感覚で新しいことをしないといけないんですよ。日本も絶対に面白くなるはずですし、みんな面白いものを欲しがってると思いますしね。これから本当に楽しみです。
KO KIMURA
