1998年に月刊誌「THE FLOOR」として創刊し、その後「FLOOR net」へと名前を変え177号まで発行。そして、2014年よりフリーマガジンとしてリニューアルした「FLOOR」は23号となり、トータルで200号を迎えました。

その間、約20年間。本誌は絶えずダンスミュージックシーンを追い続けましたが、この機会に一度改めてその本質について考えてみたいと思います。

「21世紀のダンスミュージック 〜過去を知り、今を生きる〜」と題して、日本のシーンを支える3人の賢者とともに振り返る本特集。その初陣を飾るのはDJ EMMA。
黎明期たる1980年代から今に至るまで、彼の存在が本邦におけるシーンの一翼を担ってきたことは間違いありません。長きに渡り自身が体現してきたDJ EMMAだからこそ語り得るハウスの全て。ここでは、本誌では紹介しきれなかった部分も含め、たっぷりと紹介します。

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——まずはDJを始めたきっかけを教えてもらえますか。

クラブに遊びに行ってDJという存在は知ってましたが、知人にやってみたら、と誘われたのが最初ですね。

——それはどこのクラブですか?

新宿にあったツバキハウスがそもそものきっかけで、初のプレイは渋谷のレストランでしたね。

——当時はどんなプレイをされていたんですか?

もう、あまり覚えてないですね……(笑)。ただ、ハウスの原体験は1988、89年あたりで、初めて体験した瞬間に色々な意味で世界が変わったんですよ。当時は年齢的にも若かったしジャンル問わず影響を受けていましたが、ハウスミュージックはそれまで聴いていたどの音楽とも違って僕には響いたんです。それは、ハウス誕生の背景も含めてですね。

——インターネットもない当時、そういった背景などのハウスの情報はどこで得ていたんですか?

ラジオや音楽専門誌でも定期的な情報は得られなかった筈です。その代わり日本のレコードショップは当時からポップが充実していた。今はより洗練されているけど、その頃からすでに、そこに行けば新しい情報を得られるのがレコードショップで、DJの溜まり場でもあったというのも重要なことだったと思います。

——レコードショップがメディアのようなものだったんですね。

そう、しかもレコードもそこまで高くなかったですしね。当時はハウスやテクノの12インチが出始めたころでした。ただ、思うにその頃はみんな業務用のものとして捉えていたと思います。要はDJしか使わない、DJになりたい人しか使わないもので、普通の人が買うようなものじゃないっていう認識がありましたね。とはいえ、その後あっという間に渋谷から一般層に広がりましたよね。レコードを買うブームに迄なりました。スゴいことだと思います。

——そもそも日本にハウスはどのように入ってきたのでしょう?

当時、メディアもハウスに関する情報はファッション誌がわずかにNYレポートなどで紹介していた程度で、特集などを除いたらほとんどなかったと記憶しています。基本的には黄金期のNYに遊びに行って衝撃を受けた人たちからの口コミだったと思いますね。

Paradise-Garage80年代にNYで絶大な人気を誇ったクラブの殿堂 Paradise Garage

——当時はハウスをかけていたDJにはどんな方がいたんですか?

本当に一握りでしたけど、僕が最も影響を受けたのは、意外かもしれないですけどHEYTAさんとHIROくん。実はそのふたりなんですよ。彼らにはプレイスタイルをはじめ明確な違いがありましたが、音楽のかけ方という点では多くのことを学びました。
僕にとってハウスはジャンルとして新しかったのはもちろんですけど、音楽そのものの概念を変えてくれたんですよ。DJに対する考え方も完全に変わった。当時DJというものに捕われそうになっていた自分を解放してくれたのがハウスだったんです」

——それがハウスの洗礼だったんですね。

そのころのハウスは、本当に見つけられない音楽だったんですよ。NYから入ってくるカセットテープは取り合いでしたし、12インチも数枚しかないような時代で。ただ、クラブには絶対にあったんですよ。なぜなら、それが新しい、これからくるって思われていて。だから夜な夜な4つ打ちがかかるお店を探しにいっていたくらいでした。

——それは、GOLD以前の話ですね。

そうです。その後、渋谷CAVEにはK.U.D.O.さんがいて、僕がDJをしていたコニーズ・パーティに藤原ヒロシさんなどをゲストに迎えたり、少し上の世代の人たちと一緒にハウスをプレイし始めた時代ですね。

——当時が日本のクラブ創世記ですか?

それはもう少し前、クラブ自体の創世記となると、4つ打ちの前だと思います。

——なるほど。その後、1989年に芝浦GOLDができ、それはハウスシーンの夜明け的な印象があります。

そこもまた繋がっているんですよ。ツバキハウスから活躍していたDJの方もいましたし、一方でNYで活動していたDJ達が東京に戻ってきたり。それに、ディスコやブラックミュージックからの移行組がとても多く、そこからのハウスという流れとは僕は違うところから入りつつも行き着く先は同じだったり……そういったことがまた面白かったんですよね。

GOLD以前にもODEONやTURIAなど4つ打ち頻度の高い箱はあったけど商業的に成功したのかどうか……そういう意味ではハウスが成立したのはGOLDと考えてもいいのかもしれないですね。その他にもコニーズ・パーティやANOTHER WORLDもありましたけど、それは又別の盛り上がりですから。

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——当時は海外からのゲストもたくさん来ていたんですか?

数は多くなかったけど、アメリカやヨーロッパから来ていましたね、マーク・カミンズとか。僕自身も招聘に関わってましたが、当時からプレイを聴いたことがないDJを呼ぶつもりなかったですし、口コミで聞いたDJを知るために海外まで行って、直接プレイを聴いて決めてました。

——その熱意はスゴいですね。

時間もかかりますしね。でも、それしか方法がなかったんですよ。世界にそういう情報がまわるシステムもなかったので。もしかしたらデモテープだけで選んでもよかったのかもしれませんが、僕としてはその工程を体験できたことは本当によかったと思ってます。今のパーティの作り方の根底にもなっていて僕自身すごく勉強になっていましたね。

——80年代後半は、ジャンル的にはどんなものをプレイしていました?

シカゴハウスがメインでUKにイタロにNY、ニュージャージーとぐちゃぐちゃ、もちろんデトロイトもです。音楽的にみてNYハウスは分かりやすいんだけど、シカゴハウスはわからない。どこが面白かったかと言えば、そのよくわからなかったところなんです(笑)。

僕はレゲエからニューウェイブ、ポストパンクときてハウスに移行したんですが、それでも最初は意味がわからなかった、シカゴでクラブ体験したらすぐなんでしょうけどね。当時はそこにニューウェイブやディスコ・クラシックを混ぜてました。

——当時を象徴するレーベルと言うと?

シカゴはコンピの印象も強いんですけど絞るならTRAXですかね。90年代になると日本にもシカゴ盤やNY盤がたくさん入ってくるようになりましたね、その後はレコードブームです。

TRAX

——一方でSATOSHI TOMIIEさんがDEF MIXの一員として活躍し、93年にはHISA ISHIOKAさんがNYでKing Streetを立ち上げています。当時の日本と世界の関係性はいかがでした?

TOMIIEくんとHISAくんがいたことによってNYとの距離は近かったと思っています。The LoftやParadise Garageの大ファンの日本人が多かったからか、友好的な関係が続いていた印象がありますね。

それ以外だとやはり世界といえば単純に(当時TOWA TEIが所属していた)Deee-Liteがスゴいことになってんなって思ってました、世界中どこに行ってもかかってるのって、すごく嬉しいことじゃないですか。

——その後、海外からのDJが頻繁に来るようになったのはいつごろでしょう?

それはYELLOWからだと思います。『World Connection』以降ですね。

YELLOW

——それで一般層にもシーンが浸透した?

それは……どうでしょうね。どこかで分けることができるのか……世間的にはGOLD時代でもすでに地上波でフロアの様子が流れてましたし、CSでコニーズ・パーティが紹介されてたり、今で言う『情熱大陸』のような番組にもDJが出演したりとか、ある程度認知はされていたんじゃないですかね。当時も今と同じくらいクラブカルチャーがわき起こっていたと思うんです。

——クラブがアンダーグラウンドという認識はなかったんですか?

大衆ディスコとダンスクラブ、そう分けるといいと思います。GOLDも最初からクラブだったというわけではなかったと思います。やはり、そう簡単には全てがうまく成立しません。当然、ある程度の集客が必要でしたし、結局はどういう人が来ているか、どういう人たちが繋がっているか、それが大きかったと思います。

——今はそういった繋がりが薄くなってしまったような……。それこそ、かつてはいろいろな人がクラブに来て、そこから新しいものが生まれていた印象がありますね。

今は面白い人がどこにいるのかわからないんですよね。ただ、昔はよかった……という話ともちょっと違っていて、回想しても仕方がないんですよ。ただ、クラブはお客さんを選べないわけで、誰もが魅力を感じるクラブにしないといけない、僕はずっとそう思っています。それは時代が変わっても同じで、そこがブレてしまうと意味が違ってしまうんですよね。

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——話をハウスに戻しますが、90年代後半から21世紀に向けて、ハウスはどう変化していったんですか?

細分化していきましたね。同時にシーン自体も変わりました。単体で成立するようになったのはかなりの変化だと思います。○○ハウス自体それはいいこともあった反面、失ったものもたくさんありますもんね。

——ただ、細分化の果てにジャンルに特化してしまった気がします。

多様性を優先し過ぎたからなのか分からないけど、小さくまとまってしまった。もはや拘りじゃなくて、捕われてしまっている印象すらありますね。まあ自由じゃないです。

——逆に細分化された中で今でも色褪せていないと感じるものはありますか?

結局のところ、僕は時代を超えて生きるトラックはスゴいと思います。それは、ジャンルではなく、曲単位。今振り返ってみても、ジャンルが際立っていたという記憶はなく、あくまで曲ですよね。

——では、90年代を代表する曲と言うと?

ここはお約束的には“Sweetest Day Of May”と答えるべきなんでしょうね(笑)

——その他には……。

僕の中ではアシッドハウスを超えるものはないですね。その中でも“Acid Tracks”。今は様々な曲が溢れているので印象が薄いかもしれないけど、当時は誰もがこの曲を聴いて驚いたと思います(笑)

——ジャンルが移行する流れとしては、時系列で言うとどうなんでしょう?

シカゴハウス、デトロイトテクノ、NYハウス……ただ、NYハウスが流行ったときはデトロイトも追随し、逆にシカゴではまた違うことが起こったり、この3カ所はお互い刺激し合っていたと思います。同時にロンドンでも発展を遂げ、イビサ、ドイツも進んでいましたね。

——21世紀以降はいかがですか?

より細分化してしまい全て把握しようなんて無理ですよ。さらには商業的に成功するのは一部だけではなくなった。それは、世界のあちこちにクラブミュージックが浸透して世界的にクラブが一般化したことにも結びつきます。限られた人達だけの遊び場ではなくなり、そうした音楽でもなくなりましたね。

——ジャンル的にはプログレッシヴハウスやエレクトロ、テックハウスなど様々なものが出てきた中で、この時代を象徴する楽曲やレーベルと言えば?

エリック・プライズのPrydaがポイントなんじゃないかと思っています。違う意見もあると思いますが、僕の中ではPrydaこそ2000年代の新しい音のイメージがありますね。そして、それが結果的にEDMなどの誕生にも影響を与えたのかなとも思っていますが。

いずれにせよ本人が意図していなくても、僕はプログレッシヴハウスもPrydaによって更にプログレッシブになれたと思ってるし、テックハウスもそう。ポップな方向に進む人にとってもPrydaのような音色を使い出したり、ディープハウス系はもう少しソフトにしていたりと、Prydaはあらゆる意味で真ん中というか、指標になっていた気がします。

——ちなみに、2010年以降のアンセムというと?

どうですかね……。あるとしても、多分それはEDM系の曲が多いんじゃないですかね。それはかつてのアンセムよりアッパーで、なおかつ機能的にはなっていますけど、ハウスと言うものではなさそうな気がします。

——21世紀、インターネットの普及により、シーンはどう変化したと思いますか?

それは全然変わりましたよね。今はそれで仕事が決まり海外に行くDJもいます。それはすごくいいことだと思いますよ。楽曲制作をする人が増えた事も大きな変化だし、それが評価されていることも含めるとDJの環境は格段に良くなってるはずです。

——最近は日本の過去の音源が再注目されていたりもしますよね。

それもいいですよね。そこから派生することもあるでしょうし。Rush Hourの一連の動きはよかったと思います。

——では、EMMAさんが今面白いものを作っていると思う日本人アーティストは?

今に始まったことではないですけどGonnoくんが面白いと思いますね。あとは話した事ないけどKEITA SANOくんとか若いクリエイターには期待していますね。

——EMMAさん自身は今後どうあるべきと考えていますか?

ACID CITYは流行らせたいというよりは染めたいんですよね。一緒じゃないかと言われそうだけど僕の中では全然違う、そうあるべきと考えてる。一方でNUDEという新しいユニットはより大衆にリーチするのがスタートなんだけど、あくまで立脚点でハウス、テクノの手法で、その良さを失わずにいかにできるのかを試してみたいんですよ。歌詞も英語や日本語だけでなく他の言語で当てはめてみたりとかして。成立しなければ意味がないんですけど、今の音としてリリース出来たら良いですね。僕は今少ないものを形にしたいと思ってるんですよ。

——現代社会にはない音、新しい音を常に追求しているんですね。

最近はイメージを壊すこともないというか、そのままというかクラブを取り巻く全てが当たり前の感じになってきている気がするんです。DJのスタイルにしても驚きが少ないですよね。売れる売れないではなくて、何を伝えたいのか、それを追求することで自分のスタイルもどうあるべきかわかると思うんですけどね。

——今後、シーンはどう変わっていくと思いますか?

3年後はわかりませんが、それほど変わらないと思います。ただ、ストリーミング等のサービスはより発達していくでしょうから、そこは日本の政治と同じぐらい読めないですね(笑)。いいものを踏襲して、新しいものを生んでいくことを地道に(笑)、それが良さそうですよ。

ハウスが誕生して30年以上、アンダーグラウンドという言葉もすり減ってきた今、お金で出演権を買うような羞恥心のない人が増えたのもあり、余計に考えないといけなくなったこともあるのかな。僕の中ではアイディアで音楽やDJをやることがベストなんじゃないかと。

——よくも悪くも機材の進化で誰でもDJができるようになり、問題も増えたと。

それ自体はどの世界も一緒ですよ、そこからいろいろと始まることもあるでしょうし。僕が思うのは機材云々の前に、いろいろな音楽を聴いた方がいいと思いますね。拘るのと捕われるのは全く意味あいが違うので。

——最後に今最も実験的だと思うサウンド、またはジャンルを教えてもらえますか。

間違いなくGqomですね。あそこには、まだ余地があるんですよ。日本にはあまり情報が入ってきていないですけど。

——EMMAさんの中では、Gqomをミックスしたり、制作するイメージが既にあるんですか?

もう作ってます。自分のプレイの中でビートが変わっていく、それは絶対に面白いと思いますね。僕はGqomが出てくるまでビートに関して諦めていた部分があるんですよ、もはや新しいビートはできないと。でも、それが作れたんです。ハウスやテクノの領域の中で、まだ可能性が残されていたのは正直ショッキングでした。そして、その興奮はまだ続いているんです。それが僕にとって一番楽しみでもありますね。