4月上旬、まだまだ桜が舞う中、突如報じられたフランキー・ナックルズの死。これには世界中のミュージックラバーたちが悲しんだことだろう。彼を偲び、その偉大なる功績を改めてここに書き記したいと思う。

すでに各所で報じられているように、2014年3月31日、ハウス・ミュージックの創始者のひとりとして知られるDJ/プロデューサーのフランキー・ナックルズが亡くなった。享年59歳。死因は糖尿病の合併症によるものだった。

彼の訃報が伝えられてから、国内外の様々なミュージシャンやDJ、クラブ関係者から政府関係者まで、フランキー・ナックルズを偲ぶ声はメディアやSNSで日増しに大きくなっていった。それぞれの言葉はどれもが非常に率直で、彼への敬意と感謝、フランキー・ナックルズを失った悲しみが溢れ出している。

1955年、NYのブルックリンで生まれ育ったフランキーがDJの道に足を踏み入れたのは1970年代前半のこと。71年にニッキー・シアーノが開いた本格クラブの草分けであるギャラリーに学友のラリー・レヴァンとともに通いだし、店の雑用を手伝いながらDJやパーティのノウハウを覚えた。DJを始めたのはクラブ:ベター・デイズで、やはりラリーと一緒。ふたりともまだティーンネイジャーの頃だった。ほどなくしてフランキーとラリーは、ゲイ・クラブ:コンチネンタル・バスに移り、レジデントDJとして研鑽を積んだ後、彼はクラブ:ウェアハウスのオープニングDJを務めるためにシカゴへと移る。一方のラリー・レヴァンは親しかった音響エンジニアのリチャード・ロングと組んで、後に伝説となるパラダイス・ガラージのオープンに参加。1977年のことである。

この頃のシカゴでフランキーがプレイしたのはパワフルでソウルフルな黒いディスコや、Salsoul Recordsなどのダンサブルでドラマティックなディスコ。それら自体は特に目新しいものではなかった。彼のDJの特徴は黒人好みのディスコと、当時のシカゴではマイナーだったデペッシュ・モードやヒューマン・リーグなど、ヨーロッパ産のエレクトリック・ビートを混ぜた選曲だった。また、今でこそ当たり前となったリエディットの概念を生み出し、フランキーはそうしたレコードと、あらかじめドラム・マシンで打ち込んだ自作のビートをミックスしたり、曲の一部を引き延ばすようなエディットを施したテープを交え、それまでにない強靭なダンスビートとオリジナルのピークタイムをつくり上げた。こうしたプレイは当時のシカゴでは他に全く聴かれなかったため、フランキーのDJは瞬く間に街の評判となり、彼のサウンドは「ウェアハウスで聴けるミュージック」、略して“ハウス・ミュージック”と呼ばれるようになった。

80年代に入るとフランキーはウェアハウスを辞め自身のクラブ:パワー・プラントを立ち上げる。一方のウェアハウスも店名をミュージック・ボックスと改め、よりドラッギーで暴力的なスタイルのロン・ハーディをレジデントに据え、両者は相乗効果的な活況を呈した。シカゴ・ハウスの熱狂は、デトロイトのデリック・メイにも決定的な影響を与えていた。またフランキーが手がけた“Your Love”や“Baby Wants To Ride”、彼の影響下でシカゴの無名の若者たち(チップ・Eやラリー・ハードら)が作り始めたシンプルでミステリアスなシカゴ・ハウスは、NYでラリー・レヴァンにより拡散され、その音の波は遠くUKでセカンド・サマー・オブ・ラヴ〜レイヴ・カルチャーへと連なっていく。

そして80年代後半になるとフランキーはパワー・プラントを閉め、NYに戻る。パラダイス・ガラージの伝説に幕が閉じ、またHIVが世界に不気味な広がりを見せ、特にフランキーの属するゲイ・コミュニティには一際濃く暗い影を落としていた時期だった。そうした状況下で、彼はデヴィッド・モラレスとともにDef Mix Productionの一員として楽曲制作に注力する。SATOSHI TOMIIEと組んだ“Tears”、フランキー自身の代表曲のひとつ“Whistle Song”に象徴されるような、独特の憂いと優しさを帯びた不思議な情感をもち、それでいて洗練されたDef Mix&フランキーのサウンドは大成功を収めた。それを受け90年代にはマイケル・ジャクソン、ジャネット・ジャクソン、マライア・キャリー、ペットショップ・ボーイズ、トニー・ブラクストンなど、ワールドワイドなポップ・アーティストのリミックスを次々と手がけることとなり、いずれも世界的なヒットとなった。Def Mixのこの成功こそ、ハウスの創始に次ぐ彼のさらなる偉業といえる。フランキーは、97年に新設されたグラミー賞「リミキサー・オブ・ザ・イヤー」の初代受賞者となり、アカデミー賞は彼の逝去にあたって「彼のリミックスとパフォーマンスはハウス・ミュージックをメインストリームの音楽へと導いた」という公式声明を寄せた。それをダンスフロアの側から見るならば、「アンダーグラウンドのクラブDJが生んだ“ハウス・ミュージック”が、世界中の音楽ビジネスに重要な進化をもたらした」ということになる。

彼のそうした幾多の功績を称え、今ではシカゴのウェアハウスがあった通りには「HONORARY“THE GOD FATHER OF HOUSE MUSIC”FRANKIE KNUCKLES WAY=“ゴッドファーザー・オブ・ハウス・ミュージック”と誉り高きフランキー・ナックルズ通り」と名づけられた道標が掲げられている。また彼はエイズ・チャリティや子供たちの教育支援といった慈善事業にも熱心に取り組み、それを賞してシカゴでは2004年から8月25日が「フランキー・ナックルズの日」と制定された。ちなみにフランキーがシカゴに移った頃は、居住区が人種で区切られており彼は大いにショックを受けたという。同性愛嫌悪も今以上に激しく、黒人ゲイ・カルチャーの象徴としてのディスコ排斥運動も苛烈だった。彼が社会的マイノリティに与えた影響も計り知れないのである。

近年のフランキー・ナックルズは持病が芳しくなかったとはいえ、かつて“Your Love”を共作したジャミー・プリンシプルやエリック・カッパーとのプロジェクトでリリースを続けていたし、3月にはマイアミでのDJでフロアを歓喜させたばかりだった。それだけにこのたびの急逝は残念というほかない。ただ音楽だけが永遠に残り、また次の音楽へと繋がれていく。偉大なるDJの冥福を、ただ祈ろう。